劇作家のジェイムズ・バリー (ジョニー・デップ) は、最近、書く作品の評判が思わしくない上、妻のメアリ (ラーダ・ミッチェル) との仲も思わしくなかった。そんな時バリーは、4人の息子たちを女手一つで育てているシルヴィア・ルウェリン (ケイト・ウィンスレット) と出会う。純真な子供たちはバリーにまた新たな創作意欲を湧かせ、ルウェリン家に入り浸るが、それは一方で社会の好奇の目を引き起こし、メアリとの仲をこじらせることにしかならなかった‥‥
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「ネバーランド」は、「ピーター・パン」の作者として知られるジェイムズ・バリーを描く、かなり事実色の濃い、いわばドキュドラマである。事実と、それにある程度の脚色を加え、ちょっとスランプ気味だったバリーが、どのような経緯で、今日では児童文学の傑作の一つと目される「ピーター・パン」をものにしたかを描く。
そのバリーに扮するのはジョニー・デップで、こないだの「シークレット・ウィンドウ」に引き続き、また作家を演じている。デップは「ナインス・ゲート」でも作家を演じるなど、かなりこの職業を演じる機会が多い。元々デップはどちらかと言うとそれほどアクが強くなく、監督の思うような色に染まりやすい体質の俳優だが、いつも心ここにあらずといった感じで何考えているかよくわからないというデップの印象が、作家という職業と結びつきやすいのだろう。
あるいは、さもなければ今度は「パイレーツ・オブ・カリビアン」での思い込みの激しい独りよがりの海賊という役で喝采を浴びてしまう。いつも放心しているような役か、さもなければ思い込みの激しい役のどちらか両極端の役が得意というのがデップの不思議な才能であるわけだが、ま、考えればこれは同じコインの裏表のようなものであるのかもしれない。いずれにしても、今回、海賊を演じる作家という役のオファーがデップに行ったのはいかにも当然だ。はっきり言って、この役をいったいデップ以外の誰にキャスティングすればいいのか見当もつかない。デップって、どう見ても我々と同じ世界に住んでいるとは思えないところがあるからなあ。
実はこの映画、私はそれほど惹かれていなかった。ピーター・パン、ふーん、お子様も見れる感動ものですか、くらいにしか思っていなかった。それでも見に行ったのは、私よりも女房がこの作品に乗り気で、いつだったか予告編を見た時から絶対見ると宣言していたからだ。そのため、別に誰が演出しているかもまるで気にしていなかった。そしたらなんと、マーク・フォースターの名前がスクリーンに出た時は、本当に驚いてしまった。これが「チョコレート (Monster's Ball)」を撮ったのと同じ人間が撮ったとは到底思えない。この人生に対する温度差はいったいなんだ。特に「チョコレート」の前作「エヴリシング・プット・トゥゲザー」の、ほとんど人生諦めたとでもいうような冷たい印象から較べると、それこそ雲泥の差がある。確かに「チョコレート」ではひしひしとした土着の生命力のようなものが感じられたが、この転向はすごい。宗教変えましたかと訊きたくなる。
とまあ、「ネバーランド」はかなり人生前向きな印象を受ける感動ドラマなのだが、実は私はこの中で描かれているバリーという人物に対して、ほとんど好感を持てなかった。この男、一応「サー」という称号を得ているれっきとした貴族であり、かなり裕福な暮らしをしている。一方、この時代の英国貴族というもののしきたりやマナーはかなり厳しいものであり、実際は家の中でどんな暮らしをしていて、妻との関係がどんなものであろうとも、体面は繕わなければならない。
つまり、バリーがシルヴィアと4人の男の子たちとの関係に傾倒するのは、いても気づまりなだけの家や妻メアリから離れていたいことの裏返しであり、家にあまり帰りたくないと思っているからだ。結局、家では一人メアリだけが世間体を繕うためだけのために家を切り盛りしていたりする。それでも人々の口に戸は立てられず、二人は最終的に破局を迎えるわけなのだが、そこでバリーは、私は努力したんだよ、といいわけがましく口にするのだが、そんなの、いいわけにすらなってないとしか私には思えなかった。あんたはまったく努力なぞしていない。少なくとも努力していたのはメアリの方だけであって、あんたはいつもただ逃げていただけだ。それを努力なんて言ってもらいたくない。
要するに「ピーター・パン」は、そういう、現実に立ち向かうことができない人間の書いた究極の現実逃避物語なのだ。実際、そう考えると、いつまでも子供のままで大人にならない「ピーター・パン」という物語がいかにも腑に落ちる。大人になりたくないという子供のことを本気で書くことのできる大人というのは、正直かなり屈折した人間か、成長期になにか問題があったか、あるいは現実に直面できない逃避指向の人間であるかだろう。もちろん、そういう逃避指向をただの逃避で終わらせずに一つの作品として結実させた才能は称賛して然るべきだろうが、しかし、それでも、よく考えると、子供が子供のまま成長しないという、話の根幹の不自然性は残る。つまり、私が「ピーター・パン」という物語に感じるのは、いつまでも変わらない子供のままの純真な心を描いたよくできたファンタジーというよりも、うまく成長できなかった大人のいびつな感性である。
実際、今人々がネバーランドと聞いて真っ先に連想するのは、誰よりもまず、40代になっても大人になりたくないと公言して憚らず、自分の家をネバーランドと呼び、そこに幼い子供たちを呼んでいたずらしたとして訴えられているマイケル・ジャクソンだろう。結局バリーとマイケルの根は同一であり、一方が児童文学の大家として名を残し、もう一方が、児童愛好の倒錯者として知られるようになったのは、それこそ同じコインの裏表に過ぎない。一方が一線を踏み越え、もう一方は踏み止まったという違いはあるかもしれないが、あるいはバリーだってそうじゃなかったという保証はどこにもない。うまく人々に知られずに終わったということだけなのかもしれないのだ。ほとんど隠れ主人公である末っ子のピーターが、現実には成長してから自殺したなんて話を聞くと、たぶん話は美談のままじゃ終わらなかったんだろうとどうしても思ってしまう。
というわけでこの作品、結構できがよいと誉められ、批評家受けがいいのにもかかわらず、私はあまり感心しなかった。私は元々「ピーター・パン」が好きじゃなかったというのもある。例えばSFで、生物が歳をとらない世界とかを設定されると、不満ではあるがまだ納得するが、普通の人間の世界に現れてただ一人だけ歳をとらない少年という奇形の存在は、やっぱり納得しろと言われても無理があるんじゃなかろうか。
あるいは、こないだ私は恩田陸の「光の帝国」を読んだのだが、その中に、歳をとらないという登場人物が出てくる。ところが別にこの作品ではそういうキャラクターが気にならなかった。なぜか。それはその人物が、既に中年以降、ほとんど老齢の人物として造型されていたからだ。あるいは、極端にスロウなスピードではあっても、歳は加算していくような印象が得られたためでもある。ところが「ピーター・パン」のように、まだ大人になってもいないくせに大人になりたくないというでかい口を叩かれると、猛然と反発してしまう。これから大人になって、もっとすばらしい人生や瞬間がいつ訪れるかもしれないのに、それを経験したこともない人間から大人になりたかないなぞという意見を聞くのは、あまりにももったいなさ過ぎて腹が立つ。映画を見た後、隣りで目をうるうるさせている女房を横目で見ながら、私はちょっと顔を背けて、不満、と一人ごちていたのであった。