Full Frontal

フル・フロンタル  (2002年8月)

「エリン・ブロコビッチ」で復活してからというもの、「トラフィック」「オーシャンズ・イレブン」、この「フル・フロンタル」、そして11月には「ソラリス」の公開が決まっているなど、スティーヴン・ソダーバーグはとにかく演出作が途切れない。さすがにこれだけ続け様に作品を撮っていると、頭が発酵してしまうようで、「ソラリス」の後はしばらく休むとインタヴュウで答えていた。


「フル・フロンタル」は、ハリウッドの様々な人間の生活を描く群像劇である。群像劇とはいってもソダーバーグだから、一般的な意味での群像劇からはちょっとひねってある。ハリウッド・スターのフランチェスカ (ジュリア・ロバーツ) が、映画を撮っているという設定がまずあり、それに何らかの関係で絡んでくる人物たちを描くというのが大まかなプロットである。 そういう話自体はともかく、作品の印象を左右する最大のポイントは、新作を撮っているという設定のロバーツが出てくるシーンと、その他の面々が出てくるシーンとの画質の違いにある。


ロバーツ以外のシーンでは、すべてヴィデオ撮影による、画質の粗い画面になるのだ。つまり、作品の約5分の4くらいはこういう画面になるのである。「トラフィック」でこの効果を発見し、成功を収めたために、この方法をもう一歩推し進めてみたくなったんだろう。しかし、場所の違いという作劇上の後ろ盾になる理由がちゃんとあった「トラフィック」に対し、「フル・フロンタル」ではそれがない。ロバーツは最初、その他の登場人物が登場するLAではなく、ニューヨークにいるという設定で登場し、また、彼女のシーンは劇中劇である映画の中のシーンという理由づけはされているが (そのため、劇中劇以外のシーンではロバーツの出演シーンも画像が粗くなる)、だがしかし、そのためにその他のシーンがこんなに粒子の粗い、見るに堪えないシーンになっていいという理由づけにはまったくなっていない。


つまり、「フル・フロンタル」は、この見るに堪えない粗い画像にどこまで耐えられるかが好き嫌いの分かれ目となる。ソダーバーグは、大学の映画学科のバディ・ムーヴィ (友達映画) のノリを狙ったと言っているが、本当にそういう風な印象を受ける作品になってしまった。そのノリを狙った玄人の遊び心満載の作品というよりも、あまりにそのノリが強すぎるために、映画を勉強している素人といった感じの雰囲気の方が勝ってしまっている。どこかラース・フォン・トリアーの雰囲気をまとっていると言えないこともないが、「フル・フロンタル」の場合、出演者にロバーツを含め、ブラッド・ピットやデイヴィッド・デュカヴニー、デイヴィッド・ハイド・ピアースとかいうような、よく知られた、メイジャーな役者が多く出演しているため、トリアー作品に見られるシリアスでありながらオフ・ビートのキッチュな感覚が充満した作品になったというよりも、素人がたまたまハリウッド・スター出演の機会を得て製作した映画という印象の方が強くなってしまった。


しかも、どうせそんな作品を撮るなら、遊び心一杯であった「オーシャンズ・イレブン」の方が断然よかった。つまり、結果として「フル・フロンタル」は、「トラフィック」と「オーシャンズ・イレブン」の悪いところを寄せ集めて作ったような作品になってしまった。作品の構成自体も、それぞれの登場人物の関係がつかめて、収まるべきところに収まり、ではこれから話がどう動き出すのか、という展開になるまでの前置きが長過ぎる。これだけの人間と、何かが起きそうな伏線を出しておきながら、話の核というか、転機となる事件が起きるのは既に上映時間の4分の3が終わってからで、その時までに、普通の観客は飽きてしまっているだろう。実際、私が見ている時も、我慢できなくなったと見えて、私の斜め前に座っていた中年の男は席を立って出ていってしまった。


この展開は、やはり同様に群像劇で、話の中心となる殺人事件が、ほとんど話が3分の2を過ぎたくらいになってやっと起きるロバート・アルトマンの「ゴスフォード・パーク」を思い起こさせるが、しかし、結局、事件が起ころうが起こるまいが関係なく最後まで楽しめて見れただろう「ゴスフォード・パーク」は、「フル・フロンタル」に較べれば一枚も二枚も上を行っている。頼むから、金を払ってわざわざ劇場まで見に来ている観客に、こんな手抜きにしか見えない画面を見せても大丈夫なんて考えないでくれ。これだけは言えるが、普通の観客は学生の卒業製作にしか見えない映画を見に行くほど暇じゃないのだ。


ソダーバーグは、ハリウッド映画らしい映画を何本か撮った後で、どうしても自分のルーツであるインディ映画に戻ってみたくなったらしい。実際、「フル・フロンタル」の製作費は、「エリン・ブロコビッチ」や「オーシャンズ・イレブン」から見たら微々たるものでしかない、200万ドルにしか過ぎないそうだ。この金額でできたということは、主演の場合、普通1本2,000万ドルのギャラを要求するロバーツやピットからすれば、ほとんど今回はノー・ギャラに近いはずで、言ってみればヴォランティアのようなものだろう。まあ、肩の力を抜いた、こういう作品に出たり作品を作ったりすることも、時々は作り手の立場から見ればリフレッシュの意味で必要なことなのかもしれない。演出自体も、一応の脚本はあっても、その時その時のリズムを重視して、即興でその場で色んな思いつきを取り入れるという方法がとられたそうだ。しかし、だからといって、こういう、安っぽく見える作品を撮ってしまってもいいとは言えまい。「フル・フロンタル」と「エリン・ブロコビッチ」に同じ8ドルという金を出すことには、消費者の立場から言って納得できない。


私は作り手の姿勢が前面に出てくるインディ映画も結構好きなのだが、「フル・フロンタル」の場合、インディ映画のふりをしたハリウッド映画であり、しかも手抜きにしか見えない。ソダーバーグ以外の人間がこういう映画を撮るなら、まあ、一応狙いはわかるけどね、とか、考えたね、くらいは言ってあげられるかもしれないが、最初からの期待値が大きいソダーバーグがこういう作品を撮ると、こんなの撮るくらいなら、半年たっぷり休養して他の作品を撮ってくれと思う。まあ、多分次の作品は「ソラリス」であり、「フル・フロンタル」は、「ソラリス」の反動というか、その反作用的な意味合いで撮りたくなったのは間違いないと思うから、そういう点で理解できないことはなくもないが。ああ、早く「ソラリス」を見てこの鬱憤を解消したい。







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