The House of Sand (Casa de Areia)   

ザ・ハウス・オブ・サンド   (2006年9月)

1910年。ブラジルの辺境の砂漠の開墾を夢見た男バスコが妻のオーレア (フェルナンダ・トレス)、義母のマリア (フェルナンダ・モンテネグロ) を連れて移住してくる。しかしそれは容易なことではなく、使用人たちは逃げ出し、バスコ自身も事故で死に、後には身重のオーレアとマリアだけが残される。二人は以前から砂漠に居を構えていた男マッスー (セウ・ジョルジ) の助けを借りて、なんとか生き延びようとする‥‥


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(注) 重要なプロットに触れてます。


ヴァディム・ペレルマンの「砂と霧の家 (House of Sand and Fog)」における「砂と霧」というのはあくまでも比喩でしかなかったのだが、今回の「砂の」家というのは比喩ではない。砂漠に家を建てた結果、本当に砂に浸食され、ほとんど圧し潰されそうになる家に住み続ける母娘の話だ。ブラジル映画なのだが、ブラジルにあるのはアマゾンの原生林とリオのスラムだけじゃない。


いずれにしても、これが日本人だとまず連想するのは「砂の女」だと思うが、あれだって砂の家というのはなんかの寓意であり、「ハウス・オブ・サンド」のように、大自然の砂漠の浸出に敢然と対抗するという話ではない。「砂の女」から連想するのはアリ地獄であるが、「ハウス・オブ・サンド」では、一応、砂の家は外部に向かって開かれている。それが開かれすぎて簡単に外部に助けを求められないところに話のポイントがある。また、未踏の僻地に文明を持ち込んで手なずけようという発想は、ウェルナー・ヘルツォークの「フィッツカラルド」を想起させる。映画ではそういう発想は頓挫せざるを得ないのが常套ではあるのだが。


話はまず1910年、ブラジルの辺境の砂漠のオアシスを開墾するという、壮大かつ偏執的な妄想を夢見て移住してくるバスコとその一家が描かれる。しかしほどなくその辺を縄張りにしている流刑人たちの末裔に貴重品は脅しとられ、使用人たちは逃げ出し、バスコ自身も頓死し、後にはバスコの身重の妻オーレアと、彼女の母マリアが残される。しかも自然は容赦なく、やっと建てた陋屋を砂が浸食してくる。オーレアは街に帰りたくてしょうがないがその伝手がない。しかしマリアはそういう生活を受け入れ、これでもいいのではないかと提案する。


砂漠は人里離れた僻地であるが、近くに人が住んでないというわけではない。同様に息子と二人で住んでいる黒い肌を持つマッスーは、折りにつけオーレアとマリアを助けてくれるし、他に塩とかを手に入れられる、島と呼ばれる小さな部落もある。マッスーの小屋は海沿いに建てられており、そこが内陸部の砂漠ではないこともわかる。時たま外界の品物を手に入れてくる行商人のような男もいる。とはいえ、だからといって、では彼女らもそうやって外界と接触できるかというと、それは話が別だ。まず男並みの体力がいるし、オーレアは身重なのだ。そして、そうやって世界から切り離されたまま、10年が経つ。


今ではマリアとオーレアの生活に、そのオーレアの娘であるマリアが加わっている。オーレアはいまだに元の社会のことを忘れてはいず、機会さえあれば帰りたいと思っている。そういう場所へある日、科学者の一行がやって来てテントを張る。その年は皆既日食が見られる年であり、彼らは星を観測するのに適した砂漠へとわざわざやってきたのだ。オーレアは科学者たちを引率する軍人ルイスと懇意になり、一夜を共にする。自分たちを外の世界へ連れて行ってくれというオーレアの頼みをルイスは承諾するが、しかし、喜び勇んで帰宅したオーレアを待っていたのは、砂に埋もれた家と、母マリアの死だった。この世界から逃げられないことを悟ったオーレアはマッスーを誘い、二人は男と女の関係になる。


さらに20年が経つ。今ではオーレアはマッスーと共に砂漠の世界から逃れられないことを諦観していたが、成長した娘のマリアはそうではなかった。マリアにとっては、近くに住む男たちと奔放な性の営みをすることだけが退屈の憂さ晴らしであった。そしてそこへ20年ぶりに、今では軍の要人となったルイスが通りかかる。ルイスはかつてのオーレアそっくりのマリアと会い、そしてオーレアと再会する。オーレアは、自分の代わりにマリアを外の世界に連れて行ってくれと頼むのだった。


そしてさらに20年が経つ。今ではマッスーもこの世にいず、一人砂漠で暮らすオーレアの元を、今では中年となったマリアが訪ねてくる。20年ぶりの再会。マリアは、母が最も恋しがっていたのは音楽だと言っていたことを覚えていて、発売されたばかりのカセット・レコーダーを持参していた。二人はしばし、砂漠でレコーダーから流れるピアノの響きに耳を傾けるのだった‥‥


砂漠から逃れられない3代の母娘を描く、不思議な大河寓話である。だいたい、「砂の女」にしろ「砂と霧の家」にしろ、一条ゆかりの「砂の城」にしろ、砂でできている何かというのは比喩であって (ま、確かに「砂の女」は砂の中の家に女が住んでいたわけだが、あれは全体が寓話だからなあ)、普通、砂で建造物はできない。実際「ハウス・オブ・サンド」でも、砂漠に建てた家ではあるが、家自体が砂でできているわけではないのはむろんだ。しかし、常に家は砂に浸食される運命にあるので、砂の家と言っても違和感はない。そういう場所に住む母娘を3代60年にわたって描く。なんというか、壮大というか気が長いというか偏執的というか、発想が米食人種とはまったく違うという感じで圧倒される。「シティ・オブ・ゴッド」といい「ハウス・オブ・サンド」といい、ブラジルの暑さ/熱さにはかなわない。


母娘3代の話であるが、マリアが幼い時を除き、実際に演じているのはフェルナンダ・トレスとフェルナンダ・モンテネグロの二人だけである。1910年ではマリアをモンテネグロが、オーレアをトレスが演じているが、オーレアが中年になって娘マリアが成長すると、そのマリアをトレスが演じ、オーレアをモンテネグロが演じている。そして最後のシーンでは、老境のオーレアおよび中年となったマリアを二人ともモンテネグロが演じている。二人が同一構図内に収まる時は、一人は常に後ろ向きという便法がとられる。


実はこないだサンダンス・チャンネルを見ていたら (最近この展開が多いな)、ブラジル映画の「ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・ストリート (The Other Side of the Street (O Outro Lado da Rua)」をやっていて、それにモンテネグロが主演していた。なかなか面白かったので、またモンテネグロが出ている「ハウス・オブ・サンド」にも興味が湧いたというのが正直なところだ。実はモンテネグロ出演作は「セントラル・ステーション」くらいしか知らなかったのだが、はブラジルでは斯界の第一人者と言っても過言ではないようだ。調べてみると、既に中年となった私が生まれる前から出演作がある。


オーレアを演じるトレスはまったく知らなかったのだが、実は本当にモンテネグロの娘であるそうだ。モンテネグロと名字が違うのは、父方の名字を名乗っているかららしい。トレスは現在は、「ハウス・オブ・サンド」監督のアンドルーシャ・ワディントンの妻でもある。要するにこの作品、これだけ大河ドラマのような体裁を持っておきながら、現実には夫婦と義母で製作主演している家族映画である。やはり肉食民族にはかなわない。


作品中、まだ若いオーレアが軍人のルイスと会話していて、科学者は宇宙に行くことで人間は若返るという説を信じているという話をする。そのオーレアが老境に達し、外の世界から帰ってきた娘のマリアと再会するシーンで、マリアが、人類は月に降り立ったという話を母にする。そこでオーレアはマリアに、で、その帰ってきた飛行士は若返っていたの? と質問し、そこで場内から笑いが漏れるのだが、最初にオーレアとルイスがその話をしたのが1919年。オーレアがマリアに質問したのが1969年。なんと50年の歳月をかけて伏線を張ったギャグである。私は笑うというよりも、その悠揚迫らぬ時間の流れの扱い方にまた圧倒されたのだった。私だって南国出身なのだが、本当にブラジルでは時間の進み方が他の世界とは違うかもしれない。


ところで、作品の最後ではマリアとオーレアが、マリアが持ってきたカセット・レコーダでショパンの「レインドロップ (雨だれ)」を聴く。砂漠で「雨だれ」という対比はともかく、作品内では音楽が用いられるはこの最後のシーンと、科学者たちが一緒に連れてきた楽隊に演奏させるシーンの2か所だけで、効果としての音楽は使用されないため、逆にこれらの音楽は非常に耳に残る。


話は変わるが、私はジャズ・ピアノのファンなのだが、つい最近買ったジャン-ピエール・マスの「オンブル ((H) Ombre)」でも、マスがショパンの「前奏曲 ホ短調」を弾いており、これがまた非常に格好いい。しかもこうやって崩されると、この曲、何かに似ていると思って思い出したのが、ブラッド・メルドーの「エグジット・ミュージック (Exit Music)」だった。「エグジット・ミュージック」自体はレイディオヘッドのカヴァーなのだが、それと「前奏曲 ホ短調」は同じ曲だったのだ! しかし、そのことを誰も指摘しているように見えないのはどういうわけなんだろう。


いずれにしても、これでいきなりショパンづいてしまった。「戦場のピアニスト」の時ですら別にショパン熱に浮かされたわけでもないのに、今回ははまってしまった。それで他のショパンの曲も聴きたくなって、うちにあるショパンは何があるかとかき集めてみた。実はこれまではショパンは女々しいとか言って特に集めていたわけではないが、それでも数枚はショパンの曲を集めたCDとかがあるし、東京の知人が送ってくれたフジコ・ヘミングの「カンパネラ」にもショパンは入っている。それでしばらくショパン尽くしで聴き込んだ結果、なんとどうやら私はショパンのノクターンが最も好きらしいと自分で気づいて愕然としてしまった。


よりにもよってショパンの中でも最も叙情的と言われているノクターンか。そんなのをいきなり不惑を超えた、普段はクラシックをほとんど聴かない男が熱心に聴き入ってる図って、あまりぞっとしない。40の男が太宰を読んでますというと周りが引くのと同じだ。あまり人には大声で言えないよなあ、と言いつつこうやってばらしているわけだが。実はさっき、アマゾン・ドット・コムで最もショパンをセンチメンタルに弾くと言われるヴァーシャリのノクターン集をオーダーしたばかりなのであった。遅くかかるはしかほど重いというが、とっととかかってとっとと免疫つけておかないと。







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