The Black Dahlia   ブラック・ダリア   (2006年9月)

1947年。スターを夢見てハリウッドに出てきたエリザベス・ショート (ミア・カーシュナー) が惨殺死体となって発見される。彼女の名は「ブラック・ダリア」として流布するようになり、LAPDの花形チームのバッキー (ジョシュ・ハートネット) とリー (アーロン・エッカート) は事件を捜査し始める。バッキーは捜査の途中で美貌の上流階級の女性マデリーン (ヒラリー・スワンク) と近しい仲になるが、彼女は実はエリザベスとも関係があった‥‥


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久しぶりのブライアン・デ・パルマの新作「ブラック・ダリア」、誉められてないよねえ。実は一見して似たような印象を受ける作品である「ハリウッドランド」が一足先に公開され、好評のそちらの方を見てしまったので、さすがに2週連続で同系統の作品を見る気にならず、一週間間を空けたら、その間に入ってくる「ブラック・ダリア」の評判は、最近ではこれ以上のものはなかったというくらいネガティヴなものばかりだ。批評家からも一般客からも貶されている。


まったく誰も誉めない、いや、全員が貶すので、さすがにこういうマイナスの評判ばかり聞いていると、こちらもかなり見る気をなくす。今週見ないともう見ないで終わるのは間違いあるまい。しかし、一応気になっていた作品ではある。それでネガティヴな意見には目をつぶり、耳を塞いで劇場に行った。


見終わってからの印象を言うと、別に巷でけちょんけちょんに言われるほど悪くはない。随所に現れるやや演技過剰、オーヴァー・ザ・トップ的な演出は、いかにもデ・パルマらしいケレンで、充分楽しめる。以前、同様にやや露悪的演出に特徴があるリドリー・スコットに演出を頼んでおいて、でき上がったのを見て派手にやり過ぎと酷評された「ハンニバル」を思い出した。要するに今回も貶され方が似ている。


さらに今回は、似たような時代と舞台設定の「ハリウッドランド」がいち早く公開済みというのもマイナス材料になった。「ハリウッドランド」はほとんど正攻法の演出でぐいぐい押す作品であったため、その後でデ・パルマ作品を見ると、改めてデ・パルマの癖のある演出が浮き彫りになってしまう。しかもそうすると、どうしても人はデ・パルマを貶したくなるのだ。これが公開順が逆だったら、「ブラック・ダリア」はこうも貶されることはなかったんではと思う。


「ブラック・ダリア」は、ハリウッドで昔、女優志望の若い女性が惨殺されたという事件を再構築するものだが、その事件そのものが起きるのは作品も始まって登場人物の紹介が終わり、だいぶ話も進んでからである。その、ブラック・ダリアと後で呼ばれることになる女性エリザベス・ショートの死体が発見される時に、まったく別人物を追っていたカメラが、いきなり強引にクレーン移動でビルディングを一つ飛び越え、その後ろを走っている道路の向こう側の草むらに放置されているショートをとらえる。


カメラはさらにそのまま路地を進んで元いたところに戻ってくるという1シーン1ショットなのだが、いや、もう、こういう力技を見せられると握った拳に力が入る。まったく溝口かヒッチコックかという感じで、やはりこういう度肝を抜くような演出は、そんじょそこらの監督ではできまい。そこでさらにそのまま、そのカメラの中に、車に乗ったバッキーとリーが現れるというところまで1シーン1ショットで持ってくることができたならば、他のすべてのシーンのできがどうであろうと、このショットだけで今年ナンバー・ワン作品に推したいくらいの力技だ。


その一方で、わけのわからない演出もある。その筆頭が、マデリーンの家にお邪魔したバッキーに家の者が挨拶するというシーンで、カメラがバッキーの視点になり、家の者が皆カメラに対して話しかけるというショットだろう。あそこでは観客のほとんどは唖然とするに違いない。それまで第三者の視点を維持していたカメラが、そこでいきなりバッキーの視点になる。カメラに向かって、つまりそれはバッキーに対してでありながら、最終的にそのバッキーの視点で家の者を見ている観客に向かって、彼らは語りかけてくるのだ。


アメリカに住んでいる者なら、この演出を見て、今ではクラシックとなっている「サタデイ・ナイト・ライヴ」のスケッチの一つで、好色爺に扮したクリストファー・ウォーケンが、自分の部屋に来た娘を逃すまいと、一生懸命娘の視点となったカメラに向かって話しかけるというスキットを思い出すに違いない。まったく同じことをデ・パルマもやっているわけだが、もちろん「サタデイ・ナイト・ライヴ」はギャグだ。ここではデ・パルマは大真面目だ。しかもその必然性はどこにも感じられない。


いきなりこのシーンではバッキーの人格は吹っ飛んでしまい、バッキーの目を通し、実は我々観客とマデリーンの家の者が対峙するという構図になるのだ。むろんこのことは、マデリーンの家族が事件に関わり合いがあることを暗黙のうちに訴えかけてきていることを当然意味しているはずだ。意識的にせよ無意識にせよ、デ・パルマがここでこういう演出をしたことは、犯人はこの中にいますよ、さて、誰でしょうと、刑事バッキー=観客に向かって問いかけていることに他ならない。だからこそここで一瞬、バッキーという人格が消えてなくなってしまうのだ。


「ブラック・ダリア」は半ドキュドラマ的な作品で、現実にそういう事件があったとはいえ、一応ジェイムズ・エルロイの同名原作の映像化である。当然ここで人が思い出すのは、もう一つのエルロイ作品の映像化であり、しかもこちらは同様に入り組んだストーリーを切り詰め、よくできた話として佳品に仕立て上げたカーティス・ハンソン演出の「L.A. コンフィデンシャル」だろう。しかもそうすると、やはりデ・パルマに分が悪いという気がする。原作が充分過ぎるほどひねられてある時に、さらに癖のある演出家の手を煩わせる必要はないように思える。


それはもっともな話であり、実際、ほとんどの者はそう思ったわけだ。とはいえ、全編を通して登場人物の全員が僅かずつ演技過剰、演出過剰というマンガティックすれすれの演出は、それなりに楽しめる。場面転換時のディゾルヴやワイプの多用なんて、今では「スター・ウォーズ」以外では見ることのできないテクニックだし、作品の冒頭、LA暴動シーンの演出からして、既に単なる下手くそかギャグかと罵倒されそうである。もちろんそういう演出はデ・パルマの専売というよりも、当時のハリウッド映画の演出の仕方を真似てそういう雰囲気を出そうとした結果であり、デ・パルマがそういう傾向を内包していたにせよ、デ・パルマ作品が常にこういう印象を与えていたわけではない。


登場する俳優も、ほぼ全員が大味という印象のある俳優を揃えている。スカーレット・ヨハンソンやジョシュ・ハートネットのような誰が見ても大味と思える俳優と並ぶと、ヒラリー・スワンクやミア・カーシュナー、アーロン・エッカートまでもが、実はかなりそういう傾向がある俳優だったのだと思えてくる。実際そうだったのに、それまでは演じてきた役柄のせいでそうは見えなかったのではないかと思えるから不思議だ。つまり、デ・パルマがやりたかったことは、そういう古い革袋の中に新しい酒を入れてさらにその上に自分なりのテイストを付加してみるということであり、実は「ブラック・ダリア」は「L.A.コンフィデンシャル」や「ハリウッドランド」と比較されるよりも、30-40年代のジェイムズ・キャグニー主演のギャング映画と比較検証されてしかるべき作品であった。それが公開時期の不運も含めた因果で貶されるのは、残念と言うしかない。






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