Gabrielle   ガブリエル   (2006年8月)

功成り名遂げた貴族階級のジャン (パスカル・グレゴリー) がある日家に帰ると、そこには妻ガブリエル (イザベル・ユペール) からの、家を出ますという置き手紙があった。途方に暮れるジャンだったが、その懊悩が収まる間もなく、当のガブリエルが帰ってくる。男との駆け落ちに失敗して帰ってきたのだったが、二人の間の溝はそこから深まっていくばかりだった‥‥


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先日深夜、例によって例のごとく、TVで映画チャンネルを垂れ流しにしながらコンピュータに向かっていた。その日合わせていたチャンネルはインディペンデント映画専門のサンダンスで、これまたいつも通り、ちらちらとTVに目を走らせながらいつの間にかそちらの方に興味が向かい、そのうちに仕事のことは忘れてTVに見入っていた。


その時見ていたのがパトリス・シェローの「インティマシー/親密」で、近年、自分も中年の域に達してきたせいもあるだろう、中年以降の男女の恋愛や人間関係を扱った作品に以前に較べてスムーズに感情移入できるようになった。そういう男女が、まずセックスを媒介に愛情を育てるという話なのだが、10年前でも果たしてこの映画に興味を持ったかは定かではない。それにしても近年、中年以降の男女、特に女性の側に焦点を当てた作品が増えてきたという印象があったのだが、そういう作品は昔からあったのだが、私自身がそういう歳になったために、それが目に入るようになってきただけなのかもしれない。


さて「ガブリエル」は、そのシェローの新作である。実はシェロー作品で見ているのは30年前の「蘭の肉体」だけで、イザベル・アジャーニが出た「王妃マルゴ」も見てない。責められてもしょうがないという気がする。それにしても考えたら「蘭の肉体」はシャーロット・ランプリングの映画だった。決して肉体派とは言えないランプリングが、今年公開の「ヘディング・サウス」まで、退廃的セックス・アピールを何十年にもわたって発散し続けてきたということに感嘆の念を覚えざるを得ない。


一方、ランプリングほどではないにせよ、「ガブリエル」に主演しているイザベル・ユペールも、出演作ではかなり脱いでいたり、あるいは性をテーマにする作品によく出ていたりする。実はユペールの初期の作品はよく知らないのだが、初めてユペールの名を認めたマイケル・チミノの「天国の門」で、既に初々しい (といっても当時既に20代後半だが) 裸体をさらしていた。とはいえ、特に近年ではミハエル・ハネケの「ピアニスト」ほど衝撃的で物議をかもした出演作はあるまい。


そのユペールが今回演じるのは、貴族階級の、頭のよい貞淑な妻を演じながら、ある日夫を捨てて別の男と出奔するが、その舌の根の乾く間もなく家出に失敗して帰ってくるという、ちょっと間抜けな役どころだ。もちろん作り手はそれを大真面目で悲劇に仕立て上げているのだが、私の目から見るとこれは喜劇の設定にしか見えない。シェイクスピアならこういう状況設定なら絶対喜劇にするだろう。それを「ガブリエル」では大時代的な悲劇にしている。実際にそういう過去の時代に設定しているところが、現代ならやはりこれは喜劇にしかならないだろうと作り手も判断したのだと思われる。原作があるそうだが、そちらの方がもうちょっと話に入り込みやすかっただろう。


ガブリエルからの置き手紙を発見した夫のジャンは、発狂寸前に見えるくらい取り乱すのだが、その気持ちの昂りが治まる間もなく、当のガブリエルが帰宅してしまう。思わずジャン本人が、唖然としてまだ気持ちの整理がついてないというようなことを口走るのだが、これって、本来ならどう見ても笑いをとる間合いだろう。シェローも作品が大時代的なのを意識して、というかわざと誇張して、重要なシーンになるとわざとばーんと大仰な音楽を挟み込み、スクリーン一杯にサイレント映画のような字幕文字が挿入されたりする。登場人物の心理や時間軸と無縁にモノクロになったりカラーになったりするイメージは正直言って遊び過ぎだと思うが、要するにそういう大時代的な、我々が住む現代の世界とは異なる世界を提供したかったのだろうというのはわからないではない。


ガブリエルは逐電に失敗して家に帰ってきたわけだが、だから夫にすまなさそうにしているかというと、そんなことはない。むしろジャンの方がガブリエルの機嫌を窺っている。世間体を気にする貴族階級ということもあるだろうが、ジャンの方がガブリエルに惚れているからだ。ガブリエルの行動は当然召使いたちにはバレているが、それでも、どうも彼女らはガブリエルの方に同情的に見える。なぜ成功した知識人のジャンが皆から疎んじられている、とは言わないまでも、家の者が誰も彼を特にサポートしているようには見えないのが不思議である。


作品の終わりの方では、ガブリエルがベッドに横になり、着ているものをはだけてジャンに誘いの言葉をかけるシーンがある。実はこのシーンを見て、私はそれこそ「スイミング・プール」でシャーロット・ランプリングが前をはだけた同様のポーズでおっさんを誘い、犯罪のシーンから目をそらさせようとするというシーンを思い出した。やっていることの目的は異なるだろうが、自分の身体を利用して相手の出方を窺うという行動原理は同じである。それにしてもヨーロッパでは、50でも60でも女性の身体はコミュニケーションの道具になるというか、武器になる。だいたい男はそれに振り回されているのだ。それで自分を見失ってしまうジャンを見ていると、確かにそういう点では「ガブリエル」は悲劇である。しかし、やはり後ろで彼を指差して笑っている輩は多いだろう。


ついでに言うと、元々大真面目くさいユペールは、真面目に演技すればするほど、どこかずれていく感覚を見る者に催させる。「ピアニスト」は、そうい思い込みの激しい人間という印象の強いユペールが演じたため、笑うに笑えない悲劇とも喜劇ともつかない傑作となった。ところが「ガブリエル」では、シェローは、たぶん人物造形は原作に忠実に合わせたんだろうという気がする。だから映像にした場合、喜劇が似合う作品を悲劇のままで留めてしまったために、中途半端な印象を受けてしまう。幕切れのシーンを見ながら、やっぱりこれは喜劇にしか見えないよなと、私は一人ごちてしまったのであった。 







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