Swimming Pool


スイミング・プール  (2003年8月)

ロンドンのミステリー作家サラ・モートン (シャーロット・ランプリング) は最近少しスランプ気味で苛立っており、編集のチャールズの勧めもあって、休暇をとってチャールズの南フランスの別荘でリフレッシュすることにする。しかしサラが別荘に着いた翌日、予告もなく、いきなりチャールズの娘のジュリー (リュディヴィーヌ・サニエ) が別荘に転がり込んでくる。しかも奔放なジュリーは、朝夜構わず、地元の男を別荘に引きずり込む乱交を繰り返す。サラとジュリーは対立するが、しかし、サラは一方で小説のネタになりそうなジュリーに好奇心も感じていた‥‥


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「スイミング・プール」は、これまでのところ、今年最もロング・ランを記録しているインディ映画である。昨年の「マイ・ビッグ・ファット・グリーク・ウェディング」に較べればまだまだだと言えるが、それでも既に公開して2か月以上経つのに、あまり客足が衰えていない。これは、作品がその半分以上をフランス語が占める外国語映画であることを考えると、基本的に字幕映画に対してほとんど反射的に拒否反応を示すアメリカにおいては、稀有の例と言える。


フランソワ・オゾンの最新作であり、実は私は前作の「8人の女たち」には、狙いはともかく、とても感心したというわけではないのだが、その前の作品の「まぼろし」では、50代にもなって今なお色気をぷんぷんと発散させていたシャーロット・ランプリングに痛く感銘を受けたので、そのランプリングを再度起用し、さらに「8人の女たち」でも溌剌とした魅力を発揮していたリュディヴィーヌ・サニエを対極に置いて、女性同士が火花を散らせるスリラーを作ったと聞いて、ずっと見たいと思っていた。


しかし、評がよかったせいもあって、これはロング・ランするなと読んで、今見ないと来週すぐに劇場から消えてしまうかもしれないハリウッド大作を優先したために、まだ見ていなかった。ハリウッド・アクションは、是非とも劇場の大型スクリーンでサラウンド・サウンドで見ないと損だと思っているので、とにかく劇場にかかっているうちに見ないとと、焦ってこの夏は大量に公開された大型アクションを優先して見ていたのだが、しかし、今年の夏は、見ても見ても次から次へと大作アクションが公開される。


そろそろ別種のインディ映画に対する欲求が高まってきたので、もういい、「バッドボーイズ2」も「SWAT」も、もう見れなくてもいい、私は小粒でもスパイスの利いた作品が見たいんだと心を決めて、久し振りにインディ映画を見に劇場に足を運んだのであった。ちょっと自分の記録を振り返ってみると、インディ映画を見るのは、5月の「WATARIDORI」以来3か月ぶりである。道理でハリウッド・アクションはもういいと思うはずだ。


さて、「スイミング・プール」は、ランプリングとサニエの新旧女優の対決、みたいな評され方をしているが、私の目から見ると、これはもう、ランプリングの映画である。上から見ても下から見てもランプリングの映画である。サニエは、ランプリングの魅力の引き立て役にしか見えない。ランプリングは60になんなんとしているだろうに、この充分の色気はなんだ。そのうえ、「まぼろし」に引き続き、またまたそのヌードまで拝めるとは。


私自身が歳とって、20歳くらいだと若すぎると思うようになっていることと、肉付きのいいグラマー・タイプよりスレンダー・タイプの方に惹かれるという個人的な嗜好を抜きにしても、この映画におけるランプリングの魅力は誰も否定できまい。だんだん瞼がちょっと目を覆うように下がってくるという、ちょっと偏屈な欧米人にありがちな歳の取り方をしているのだが、それがまた険のある色気を発散している。セックス三昧で喘ぎ声を上げまくるサニエよりも、ただ、ほんのちょっとだけ身体をぴくんと動かすランプリングの方がどれだけ刺激的なことか。


もちろんサニエだって充分魅力は振りまいているのだが、我々がフレンチ女優に求めているのはああいうのじゃないと思ってしまう。ああいう感じの子ならアメリカにも大勢いるし、ま、だからこそフレンチの喋れるイギリス人という役柄が違和感なくはまるというのはあるかもしれないが、彼女は、ヨーロッパ女優にしてはマクドナルド・ハンバーガーを食いすぎたみたいに見える。しかし、オゾンってまだ30代だろう? こういう映画を撮るにはまだ若すぎやしないか。


ところで「スイミング・プール」はミステリ仕立ての作品であるが、実際の事件自体は、わりと後半も押し詰まるまで起こらない。そのため、前半はともかくサラとジュリーの関係のダイナミズムの揺れが専ら話の焦点であり、見てるこちらは、これがミステリ仕立ての作品としか知らないので、そのうちこの関係が動いて、多分どちらかが殺されることになるのだろう、果たして加害者となるのはどちらで被害者となるのはどちらかと邪推しながら見ることになる。つまり前半は心理消耗戦みたいな展開なのだが、それはそれで面白いし、また、事件が起こってからの意外な展開も面白い。ところどころ見られる、思わず場内から笑いが漏れる展開はヒッチコックを彷彿とさせるとも評されており、オゾンの才人ぶりを発揮している。


唯一の問題は、よく聞かれるところだが、そのオチにある。私は、まさか、いくらなんでもこの時代にこういう落とし方はしないだろうなと思っていたので、実は、最後の最後までそこに思いが至らず、楽しめた方なのだが、最後、まさか、と思った観客もわりと多かったようだ。あるいは、まさかそんなことはあるまいという思い込みが強過ぎた者は、映画が終わった後も納得できなかったようで、私の前に座っていたおっさんは、「still confusing」を連発していた。


いずれにしても最後の見せ方は悪くないとは思ったが、あんだけ引っ張って、この落とし方で頭に来る客がいることも納得できる。もし、これが映画ではなく推理小説だったとしたら、私だって頭に来て本を破り捨てたのは間違いない。 しかし映画だと、そこに至るまでの経過やシーン、演出スタイルで気に入ったところがあると、そこで既に結構満足してしまうので、まあ、その上にひねった解決篇があったりすると確かに嬉しくはあるが、そこまで多くは注文しない方なのだ。つまり、作り手の気持ちはそこにないものを、そこをつついてもしょうがないと思うからなのだが、しかし、この映画に苦情を言うやつは、「ザ・グッド・シーフ」を見ても腹立つだろうなあ。







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