The Piano Teacher (La Pianiste)

ピアニスト  (2002年4月)

新聞の週末の上映予定表を見て、思わずえっと驚いてしまった。やっとニューヨークでもミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」の公開が始まっており、マンハッタンでは切符を買うのにも苦労すると聞いていた。だから先々週からうちの近くの劇場でも始まっていたのにもかかわらず、これは「ゴスフォード・パーク」同様、当分は見れないだろうと思って、今週まで見るのを延ばしていたのだ。そしたらうちの近くの劇場の今週の上映予定表から、なんと「ピアニスト」が消えている。そんなバカな。マンハッタンでは列を作っていたというのは、ガセネタだったのか。


よく考えると、暴力、セックス、孤独等がテーマとなっているハネケの作品は、リタイアした老年層が主要観客のうちの近くの劇場の客層とは、ちと合わなかったかもしれない。そこまで読めなかった私の判断ミスだった。いずれにしても、私がこれまでハネケの作品を見たのは「ファニーゲーム」と「コード・アンノウン」しかなく、しかも両方ともTVだったので、彼の作品を劇場で見るチャンスがあるならば絶対逃すまいと心に決めていた。それで、ここは初志貫徹、この機会を逃したら今度こそいつハネケの作品がスクリーンの上で見れるかわからないと、わざわざ1時間近くも雨の中をロング・アイランドまで車を運転して、「ピアニスト」を上映している劇場まで見に行った。


40代のシングルのピアノ教師のエリカ (イザベル・ユペール) は、過度に干渉してくる母親 (アニー・ジラルド) と長い間二人で暮らしていたため、屈折した性の願望を持っていた。普段は冷静で有能なピアノ教師という表向きの顔を崩すことはなかったが、彼女のピアノ演奏を聴いたワルター (ブノワ・マジメル) が積極的にアプローチをかけてくるため、エリカも段々心がぐらついてくる。ある日、教え子の発表会の予行演習をしていた会場のトイレで急速に近づいた二人だったが、しかし最後の一線を越えることをエリカは許さず、ワルターに二人のこれからの交際について書いた手紙を渡す。それには彼女がそれまで想像していた性のファンタジーが事細かに書かれていた‥‥


私がこれまでに見たハネケの2作品は、暴力とコミュニケーションの断絶というのが作品のテーマであったわけだが、今回もそれは変わらない。その上、今回はコミュニケーションの手段としては、多分その最も最終的な形態であろうセックスが主要なモチーフになっているわけだが、そこはハネケ、その、セックスを行う者同士が実は最も大きなすれ違い、断絶を抱えているという、ほとんど光のない世界が描かれる。とにかく、口うるさい母に育てられ、かといってその母を捨てることもできず、昼は厳格なピアノ教師でありながら、夜になると自分の妄想を持てあます悶々とした中年女性エリカを演じるユペールの役者根性に圧倒される。ヴィデオ・ボックスで直前に使用していた男が多分精液を拭いたティッシュの匂いを嗅ぎ、自分の性器を剃刀で傷つけ、カー・セックスをしているカップルを覗きながらおしっこする役なんて、やっぱり、普通はやりたくないでしょう。映画が終わってクレジットが流れ始めた途端、周りにいた観客の何人かが、あんぐりと「She's sick.」と呟いていたが、確かに頷ける。


それに、観客を突き放したように終わる、その唐突な終わり方も、ヨーロッパ的というか、さすがハネケである。そういえば「コード・アンノウン」も、映画が終わった後から主人公の本当の物語は始まる、みたいな感触があった。しかし「ピアニスト」は、起承転結の転あたりでいきなり話が終わってしまう。そんな、彼らは、エリカは、それからどうなるのか。きっとあれからもう一ひねりくらいあるんでしょう? なぜそこで終わる。それともそんなこと考えてしまうのは、私が何でもかんでもオチをつけたがるハリウッドの悪しき風潮に染まってしまったせいか。 多分、エリカの人生の一つの幕はあそこで引かれたんだろう。しかしねえ。やっぱりその後が気になるよ。社会に生きている人間として、あそこですべてを投げ捨てて逃げ出すというわけにはいかないんではないか。最後にコンサート会場を立ち去るエリカは、人生という劇の第何部かの幕を引いたというよりも、人生そのものの幕引きをしたように見える。ああ、もう、この救いのなさってば‥‥


こういった鬱々とした印象を見た後に残す「ピアニスト」は、色々と毀誉褒貶が乱れている。というよりも、好きじゃない、という意見を耳にすることの方が多い。重く、暗い映画というだけなら、「イン・ザ・ベッドルーム」「チョコレート」も、人間の心理の深遠を覗き込もうとする重たい映画だった。しかし、「ピアニスト」の場合、なんといっても見た後で気分が落ち込むという点で、最近稀に見るマイナス志向の映画だ。この映画を見てすっきりして家に帰れる者は、本物の変態であろう。しかし、気分がすぐれない、あるいは見た後に不快になるという点でなら、「ファニーゲーム」こそが「ピアニスト」に勝る史上最悪の不愉快映画であるということは論を待たない。「ファニーゲーム」を見た後でなら、たとえそれが失敗に終わろうとも、一人の女が一人の男とコミュニケーションをとろうともがく様を見せた「ピアニスト」の方が、どんなに未来のない展開でも救いがあるとも言える。「ファニーゲーム」はコミュニケーションを破棄した一方的な暴力を描くものであり、作品の持つ絶望的な不愉快さは、まさしくそこから来ていた。


しかし、こういう題材で映画を撮り続けているハネケって、ものすごいと思う。なんてったって、始終こんなことを考えていながら自分はごく普通の社会生活を送っているわけで、そういうことのできる体力、思考力、精神的なタフさというのは、ちょっと想像もつかない。そして、そういう映画に金を出して作り続けさせるヨーロッパという土壌の精神的な懐の深さ (あるいは闇?) というのも、これまた大したものだ。一応商業作品なんだろ、これ。こういう作品が商業的にペイする国というのは、ちと恐ろしいような気がする。しかしハネケの作品って、1年に1回くらいならいいが、続けて見ようという気には到底ならないよなあ。因みにニューヨーク・タイムズがユペールに行ったインタヴュウによると、ハネケは「気難しくて怒りやすく、注文が多い上に何事も偶然に頼らないため、非常にオブセッシヴ」な人なのだそうだ。さもありなん。でもそういうあんたもまたハネケと組んで新作を撮るんでしょう? やはりあんたも充分オブセッシヴ。


しかし、ハネケの音楽の使い方、そのセンスは実に見事である。「コード・アンノウン」の最後、打楽器を主調とした音楽 (リズム?) で、ストーリーなぞなくとも映像と音さえあれば一つの作品が作れることを証明して見せたハネケであるが、今回は話の中で登場人物が実際にピアノを弾いたりして音楽を奏でている時以外、バックに効果音としての音楽は一切使われない。映画のオープニングではエリカが生徒にピアノを教えているわけだが、その合間にクレジットが挟まると、その音楽を断ち切って、一切の音を聞かさない。映画の最後、クレジットが流れ始めると、やはり音楽は何も流れない。一切無音のまま、ずっとクレジットが流れていくのだ。音楽が主要な位置を占める映画なのに音楽を最小限に使用しているせいもあってか、映画の中で実際に登場人物が音楽を奏でると、とても新鮮で心地よい。もちろんそれは実際の演奏者の腕もあるのだろうが (実際にユペールやマジメルが弾いているように見えたが、本当にそうなのだろうか)。ディズニーはこういう映画を見て音楽の使い方を参考にしてもらいたいと切に思う。


主演のユペールは、感じがホリー・ハンターにとてもよく似ている。どちらもえらが張って、意志の強そうなところなんかそっくりだ。ハンターも「ピアノ・レッスン」なんて、やはりピアノに一生を捧げた女性を演じている。この二人は役の交換が利きそうだ。実は私はシャブロルの「主婦マリーがしたこと」も見てなく、ユペールを見るのはゴダールの「パッション」以来ほぼ20年ぶりなのだが、いつの間にかヨーロッパを代表する女優になっていたみたいだ。カンヌでは主演女優賞をもらっているが、これだけ女優という職業に真面目に取り組んでいる姿勢を見せられれば、何か賞を進呈したくなる気持ちはよくわかる。


実は今、2000年作品の「Les Destinees」や新作の「8 Women」がいきなりニューヨークで公開されており、それなりに話題になっているのだが、これは「ピアニスト」が話題になることを見越した配給会社の戦略であろう。昨年「アメリ」が公開された時にオドレイ・トトゥの他の主演作が公開され、「ヴァンドーム広場」が公開された時、カトリーヌ・ドヌーヴの出演作が立て続けに公開されたのと同じようなものだ。どれも全部フランス映画というのが (「ピアニスト」は厳密に言うと独仏合作であるが)、アメリカにおけるフランス映画の位置というものをよく表わしているように思う。







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