Under the Shadow


アンダー・ザ・シャドウ  (2020年10月)

もちろん「アンダー・ザ・シャドウ」を見ようと思ったのはハロウィーンという時節柄のせいだが、アメリカは今、大統領選という、ある意味ハロウィーンなんかよりもっと怖い、人類の将来を左右しかねない大イヴェントの真っ只中で、個人的にはハロウィーンはあまり気にならない。 

 

元々仮装とか飾り付けとか、たるいと思って自分から率先してやろうとはほとんど思わないのだが、こういう時でも好きな人は好きなようで、気合入れて前庭を飾り付けている家は結構多い。自分ではやらないが、他人がやるそういうのを見る分には充分楽しめる。ニューズを見ていたらこういうストレスの多い年だからこそ、ハロウィーンみたいなのが必要だとか言っている市民がいたが、確かにそれもあるかもしれない。 

 

とまあ、これを書いているのは、実はハロウィーンはとっくに終わり、米大統領選の投票も終わった後で、もつれにもつれた選挙は、投票の3日後になってもまだ誰が勝者かわからない。ある意味ハロウィーンより怖く、エンタテインメント性でも、国を挙げての盛大なお祭りみたいな印象もないこともない。 

 

「アンダー・ザ・シャドウ」の舞台は20世紀末のイラン・イラク戦争時代で、学生時代に政治活動に足を突っ込んだシデーは、もう一度勉強がしたくて復学を希望しても断られる。すごく前時代的な設定のような気もしないこともないが、日本だってそれほど遠くない過去は似たようなものだったと思う。 

 

一方シデーは結婚してまだ幼い娘がいる。夫は医者だが、娘がいながら大学に戻りたいと思っている。当時のイランでこれはなかなか進取の気性に富んだ行動だと思う。これがやがてアスガー・ファルハディの描く「別離 (A Separation)」や「セールスマン (The Salesman)」のテヘランへと繋がっていくのだな。 

 

ファルハディの映画では、イランという国、イスラムという社会、コーランの教えが導く人々のものの考え方が重要な背景になっている。西側から見ると、え、そんなのありなのという展開が、ある種のバカミス的な意外性を放って効果を上げている。 

 

それよりも時代的にはだいぶ前を舞台にしている「アンダー・ザ・シャドウ」の方が、人々の、少なくとも主人公のものの考え方は現代的だ。医者の夫がいきなり本当の戦争の前線に送られ、拒否する権利はない。夫は残していく家族のことが心配で、妻と娘を郊外の母の家に行かせようとするが、義理の母と折り合いがよくない妻は、それを拒否して娘と二人テヘランのアパートに残る。戦争とかほとんど徴兵みたいなシステムがなければ、単純に妻の行動は現代の女性のものの考え方とほとんど変わらない。本当に前近代的、閉鎖的な社会なら、妻に行動の選択肢はないだろう。 

 

しかし、これがやはりイラン映画であると思わせられるのは、その後の展開にある。「アンダー・ザ・シャドウ」で視覚的に最も強烈な効果を与えるのは、ホラー映画というジャンル性によるものではなく、撃ち込まれたものの爆発しなかったミサイルが、ビルの天井を突き破って突き刺さっているというヴィジュアルにある。天井に不発のミサイルが突き刺さっているのだ。一歩間違えば、というか、ミサイルがちゃんと機能を発揮して爆発していれば、登場人物は全員死んでいた。 

 

いや、ビルの住民は攻撃に対して全員地下の防空壕のような場所に避難していたから、生き残っていたかもしれない。それにしても避難壕だ。察するにイラン・イラク戦争時代の一定以上の大きさのビルには、すべて地下壕が普通にあったと思われる。攻撃があれば皆そこに避難した。ポン・ジュノの「パラサイト 半地下の家族 (Parasite)」みたいで、普通常識ではなさそうな設備が、あるところには普通にある。一度その世界を見てしまうと、当然それはそこにあって然るべきと納得する。地下壕で人々は攻撃を受ける間中、世間話みたいなことをしていたりする。それにしてももし地下壕にいる時ビルが壊滅すれば、人々は生き埋めにならないでいいのかと、先頃のトルコ-ギリシア地震の報道を見て思う。 

 

映画の後半は、ジンと呼ばれるたぶんイランの伝説的モンスター/精霊が姿を現す。それまでは雰囲気でなかなか怖がらせてくれていたものが、姿を現せた途端、目に見えるものとなって怖くなくなるのはほぼすべてのホラー映画に共通することだが、「アンダー・ザ・シャドウ」の場合、ほとんどCGを用いておらず、むしろ微笑ましいとすら言える。 

 

結局、一人また一人とビルの住人は砲撃 (とジン) に怯え疎開していく。シデーと娘もクルマに乗り込んで脱出を試みるのだが、そのクルマが、段ボール紙でできたクルマと揶揄されたトラバントもかくやと思われるくらい小っちゃくてちゃちい代物で、これ、本当に走るの、エンジン積んでんの、原チャリのエンジンで走ってんの? と思ってしまう。近くの買い物以外では使えそうもないこんなクルマでいったいどこまで遠くへ行けるのか。これじゃ絶対ジンに追いつかれる。この出口なしの空気こそ、80年代末のイランであり、2020年の世界に共通している逼塞感なのだと想う。しかし、現代アメリカで同様の逼塞感というか、世界滅亡の漠然とした恐怖を感じるとは。 下手なホラー映画見るより、人類を滅ぼしかねないトランプの言動を見ている方がよほど怖い。











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1988年テヘラン。イラン・イラク戦争が長引き首都は疲弊していた。シデー (ナルゲス・ラシディ) は大学に戻って医者になるための勉強を再び始めたいと考えていたが、一時政治的活動をしていたシデーは、復学を却下される。折りしも医者の夫は前線への派遣が決定したため、シデーとまだ幼い娘のドーサに田舎に疎開を勧めるが、義母と一緒に住むのが気づまりなシデーは、ドーサとアパートに残る。そのアパートにミサイルが着弾するが運よく不発に終わる。しかしドーサは、魔物のジンが近くにいると脅えるようになる。同じアパート・ビル内の少年からその話を聞いたと知って、シデーは少年の保護者にそういう話をドーサに吹き込まないようにお願いしようとするが、実は少年は口がきけなかった‥‥ 


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