A Separation (Jodaeiye Nader az Simin)


別離  (2012年4月)

テヘランに住むナデル (ペイマン・モアディ) とシミン (レイラ・ハタミ) の夫婦には、一人娘のテルメーがいた。テルメーの教育のために国外によりより環境を求めて引っ越したいとするシミンだったが、ナデルにはアルツハイマーの父がいることもあり、反対する。シミンは一人家を出、ナデルは家政婦のラジエー (サレー・バヤト) を雇う。しかし徘徊癖があり、一人で満足にトイレにも行けない父の世話に手を焼いたラジエーは、ある時父をベッドに縛りつけて、自分の用を足しに外に出てしまう。自分の父がベッドに縛りつけられて息も絶え絶えになっているのを見たナデルは激昂し、ラジエーを家の外に追い出すが‥‥


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だいたいアカデミー賞の外国語映画賞は例年粒揃いで、しかもノミネートされなければアメリカではまず見る機会のない作品を見れるということで、私にとっては本選よりも気になる賞だったりする。ただし賞レースという点で、今年の外国語映画賞はドラマがなかった。


というのも、今シーズンはアカデミー賞に到るまで、外国語映画賞を設けているすべての映画賞で、「別離」が受賞を独占し続けたからだ。ほとんど他の作品がつけ入る隙のないまったくの一人勝ちで、さすがにこれではアカデミー賞でも「別離」以外の作品が獲得できる可能性はまずないだろうとの予想通り、実際に受賞した。昨年「灼熱の塊 (Incendies)」が獲れなくて、一昨年「預言者 (A Prophet)」もダメだった外国語映画賞をこうもすんなり獲ってしまう「別離」って、いったいどんな映画なんだ?


最初に入ってきた情報によると、タイトル通り、離婚しようとするイラン人夫婦の話ということで、正直言って意外というか、ちょっと失望する。「灼熱の塊」と「預言者」が、同じアラブ系でありながら見終わってすぐには椅子から立ち上がれないほど衝撃を与えるドラマであったのに対し、「別離」は離婚調停ドラマか。これがこの3年間のアラブ3部作のトリか。


映画は冒頭、離婚調停のために裁判所? に出廷して各々の事情を述べるナデルとシミンのシーンから始まるのだが、実はこのシーン、「灼熱の塊」のオープニングを彷彿とさせる。「灼熱の塊」では裁判所ではなく、弁護士を前にして主人公の二人の姉弟が座っていた。誰か法を代表するものを前にして男女の主人公がこちらを向いて座って (立って) いるという構図から、両作品とも始まる。「灼熱の塊」では弁護士が姉弟が知らなかった事実を明らかにし、「別離」では調停者に向かって夫婦がそれぞれの事情を申し立てる。法が各々のストーリーの型を作り、そこから物語が始まるという感じだ。むろんその後の両作品の展開は、法は個人の問題に関しては、ほとんど無力としか思えない。


「別離」ではナデルとシミンは愛情がなくなったから別れるのではなく、一人娘の教育のためにテヘランではよくないと思うシミンが、父の介護のためにその場を離れられないとするナデルから去ろうとしている。しかし実はそれも、こういう思い切った態度に出れば、ナデルも折れて賛成してくれるのではないかという計算が働いているのが見てとれる。血の繋がっている父は見捨てるわけにはいかないが、結婚は打算と駆け引きが大きな比重を占める。とはいっても、二人の間に愛情がなくなったわけではない。だから何か問題があったらまた二人して話し合うか喧嘩し合う。


結局シミンは家を出ていき、ナデルは必要に迫られて家政婦を雇う。それも本当は別の男を雇ったのに、やくざ者のその男は働くに働けない事情ができ、彼の妻のラジエーが代わりに来たのだ。しかしアルツハイマーの父の介護は、女手には余る。しかもラジエーも娘連れで、一緒にハウスキーピングに来ている。父は粗相をしてパンツを濡らすのだが、そこで困る。ラジエーはどこぞの宗教団体のようなところに電話して、介護の男性のパンツを替えるのがアラーの教えに反しないか訊くのだ。こういう展開初めて見た。



(注) 以下、かなり詳しく展開に触れてます。


ある時、帰ってきたナデルは、徘徊しないようにベッドに縛りつけられてほとんど死にそうになっている父を見て激昂する。そこに帰ってきたラジエーに、あんたはもうクビだと追い出すのだが、その後思わぬ展開になる。実はラジエーは身ごもっており、ナデルに殴られるように家を追い出された時、階段から落ちて流産したというのだ。既に数か月の胎児となっていたため、ナデルは殺人罪で起訴される。こういう展開だったか。


ナデルとシミンはなんとか事態を丸く収めようと奔走する。二人はラジエーに金を渡すことで事態の収拾を図るが、そこでナデルはラジエーに対し、コーランに誓って嘘を言ってないことを宣誓するよう求める。そこでラジエーは窮してしまう。まったく、あれほど欲しい金が眼の前にあるというのに、彼らはコーランを前にしては決して嘘はつけないのだ。別にラジエーは率先して嘘をついていたわけではないが、そこにはいわゆる英語でよく言われるリーズナブル・ダウト -- 疑惑の余地があった。それだけでも、絶対的真実でなければ、ラジエーはコーランに手を置いて誓えない。うーん、まったく予想できなかった展開。


ある者にとってはまったく意味のないことでも、ある者にとっては自分の生死をかけるに値することがあったりする。特に宗教が絡むとそういうことが起こりやすい。「別離」はまったく意外性をつくよくできたドラマだが、コーランの教えに反するかもしれないため誓えないというのは、実はこの設定、本格ミステリで言うバカミスの構造だ。究極のバカミスとして名高い天城一の「高天原の犯罪」と同じ構造だ。こちらの世界では理解し得ないことが、あちらの世界では当然の常識になっている。その差が謎と驚愕をもたらす。ドラマとしてもよくできているため、見てる間はこれがミステリと意識しないが、「別離」は変格ミステリの傑作だった。


余談だが今、アメリカのNFLで人気のプレイヤーに、来季からNYジェッツに移籍するティム・ティーボウというクオーターバックがいる。ティーボウは敬虔なクリスチャンで、微妙なパスが通ったり、大きなプレイを成功させると、片足を地面につけて神に感謝の祈りを捧げる。ポーズではなくて本気でこれをやる。なんでも父が教会の牧師らしい。ティーボウ人気はものすごく、このティーボウの感謝のポーズをとることが、ティーボウイングという動詞となるくらい流行している。どこかの高校では生徒たちが挙ってなんかある度にこのポーズをとり、学業の妨げになるので、ティーボウイングが禁止されたというところもあるくらいだ。実際に禁止されたのにやって停学を食らった生徒もいる。つまり、宗教は、そこに住む世界にとっては身近なものだと言いたいのだった。「別離」は変格ミステリだが、決してルール違反ではない。


監督のアスガー・ファルハディの前作「彼女が消えた浜辺 (About Elly)」は、失踪した女性を描くやはりミステリ・タッチの作品だそうだ。やはりなと思う。「別離」がミステリにこだわっている (本気でミステリと思って作っているわけではないだろうが) のは、映画のラストでも象徴される。完全に観客任せのエンディングなのだ。今度はフランク・ストックトンの「女か虎か」だ。謎を謎のまま残し、最後は観客がそれぞれ話を完結させないといけない。私なら、うーん、どうするかな。









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