Prince of Persia: The Sands of Time


プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂  (2010年6月)

古代ペルシャ。身寄りのない少年ダスタンはその日暮らしの生活だったが,たまたま遭遇した王に気に入られ、引き取られる。それから時が経ち、ダスタン (ジェイク・ジレンホール) は、向こう見ずな王家の戦士として成長していた。ところがアラムートを攻め落とした後、ダスタンが父に贈った衣装には呪いがかけられており、それが燃え上がって父は死亡する。追われる身となったダスタンは、アラムートの女王タミーナ (ジェマ・アータートン) と共に逃亡し、父を殺した本当の犯人を探索に乗り出す。そしてダスタンがアラムートを陥落させた時に手に入れた王剣には,ある特殊な力があり、タミーナはなんとしてもそれをとり戻そうと画策していた‥‥


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正直言うと見たい順位では特に上位に位置していたわけではない「プリンス・オブ・ベルシャ」、見に出かけたのはうちの女房がジェイクを見ると強力にプッシュしてきたからだ。そんなにジレンホールが見たいのなら、結構最近も「マイ・ブラザー (Brothers)」も公開されていたけど、その時はなんとも言わなかったじゃないかというと、今回は役のために作り上げてきた身体が違うという。そんなもんですか。


実際にそのためにトレイナーと一緒になって入念に鍛えたという身体は、確かになかなかのもので、濃い甘のマスクと相俟って、ゲイの男がほっとかないだろうなと思う。本人はストレートのようだが。しかし私にとっては、ジレンホールよりも、やはり異性のタミーナに扮するジェマ・アータートンの方が気になるのだった。

「タイタンの戦い (Clash of the Titans)」で、はかない蜻蛉みたいな印象を与えたアータートンが、また古代ものに出ている。アータートンは、人種や性別を超越したようなその容貌もさながら、そのわりには幼さを感じさせる、舌っ足らずにも聞こえる喋り方が印象に残る。彼女がTVミニシリーズの「ダーバヴィル家のテス (Tess of the D'Urbervilles)」で主人公テスを演じたのも、そういう幼さと成熟さが同居するアンビヴァレントな魅力のためだろう。

また、「プリンス・オブ・ペルシャ」がギリシア神話を連想させるのは、なにもアータートンが出ているからばかりでもない。特にそう思うのがダスタンが育ての父の王に法衣をプレゼントし、それが 燃え上がって死んでしまうという件で、これって、ギリシア神話でそういう話ってなかったかと思うのだが、調べきれなかった。いずれにしてもしばらくしたら 「タイタンの戦い」と「プリンス・オブ・ベルシャ」をごったにして記憶していそうだ。それもこれもアータートンのせい。

「プリンス・オブ・ペルシャ」がディズニー映画であることを強烈に意識させられるのが、とにかく止まない音楽にある。本当に、バックに何かしら音楽が鳴ってない瞬間を探すことの方が難しいくらい、とにかく徹頭徹尾音楽で盛り上げようとする。これ、作曲する方も演奏する方も大変だよなと思う。それとも演奏の方は今はすべてコンピュータか。いずれにしても、おかげで音楽が鳴っている時よりも鳴っていない時の方が新鮮で、より耳が音を聞こうとして効果的な聴覚効果になっている。砂漠がどんなに静かか (風のない時) をわからせる意図的なものだったとしたら、大したものだ。

砂漠といえば、副題の「時間の砂」の原題が「The Sands of Time」と、砂、sandがsandsと複数形になっているのを見た時は、あれ、と思った。砂は可算名詞だったのか。考えたらサンズという発音にも聞き覚えは確かにある。砂の一粒一粒は近よれば肉眼でも見分けはつくだろうが、しかし、それでも砂を数えるという発想がなければ可算名詞にはしまい。


ヴァディム・ペレルマンの「砂と霧の家 (House of Sand and Fog)」でも砂は単数形だし、アンドルーシャ・ワディントンの「ザ・ハウス・オブ・サンド (The House of Sand)」でもやはりそうだ。むろん特に前者は即物的な砂というよりは比喩の意味が大きいので不可算なのだろうが、後者では実際に砂で家を建てる。しかし、それでもやはりsandは単数形だ。砂を数えるとして、家を建てたら必要な砂の数は1兆粒あれば足りるだろうか。その自乗は必要か。まったく想像の埒外だ。今気づいたのだが、「砂と霧の家」には今回副主人公のニザムを演じたベン・キングズリーも出ている。砂繋がりのキングズリー、お前はいったい何者だ。

「プリンス・オブ・ペルシャ」はいかにもアメリカ、もしくはディズニー的な娯楽アクションで、金もかかっている。演出はマイク・ニューウェルで、元々TVの「ザ・ヤング・インディアナ・ジョーンズ・クロニクルズ (The Young Indiana Jones Chronicles)」や、最近では「ハリー・ポッターと炎のゴブレット (Harry Potter and the Goblet of Fire)」等も撮っているので、その辺を見込まれての起用だろう。私はいまだにニューウェルというと「フォー・ウェディング (Four Weddings and a Funeral)」を思い出す。


広く喧伝されているから、皆もう知っていると思うので言及してしまうが、「プリンス・オブ・ペルシャ」のプロット上のポイントは、タミーナが守ってきた、時間を遡らせることのできる神器の存在にある。要するに見かけは宝剣の形をした、実質タイム・マシンだ。ただしこのタイム・マシン、一回の使用で遡れる時間は限界があるし、その他にも色々と使用に当たって制約がある。とはいえこれを持っていたら、ほとんど世界を征服できるほどの力を持つに等しいほどの威力があるのは間違いない。


タイム・マシンものは、うまく使わないとそれこそ両刃の剣だ。なんとなれば、どんな難題問題が持ち上がり、失敗しようとも、タイム・マシンを使って過去に遡ってやり直せばいいだけの話だからだ。一瞬、話としてはエキサイティングに聞こえるが、煎じ詰めれば繰り返しの繰り返しによる、主人公の意図だけにしか貢献しない怠惰で凡庸な結末にしかならない。だからタイム・マシンの力に限界を設けたりとか、使える時と場所と条件が決まっているとか、わざわざ制約を設けてドラマを捏造する。


なんて、タイム・マシン・プロットが出てきたとたん、冷めた目で見てしまうのだが、しかしそういう私だって、小学生の時に筒井康隆の「時をかける少女」を読んだ時には、無茶苦茶熱中したものだった。さすがに今、ああいう風にSF、特にタイム・マシンものに入れ込むのは不可能だ。


今回は、まあうまくまとめていた方ではなかろうか。というか、作り手も単純にタイム・マシンものでは私のようにすれた観客を納得させきれないのは重々承知しているので、故意に反則すれすれという思い切った手段で勝負してきたという印象を受けた。私も子供家族向け作品でこういう風に落とすとは思っていなかったので、引っかかったのは確かだ。というか、子供向けだからこれでも行けると考えたのか。


因みに、たまたま少し前に、ジャグジーがそのままタイム・マシンになるという、「ホット・タブ・タイム・マシン (Hot Tub Time Machine)」という映画が公開されていた。こちらでは、タイム・マシンを得て80年代に逆行した男たちが考えることは、やはりというか当然というか金儲けとナンパだ。ギャグだろうがアクションだろうが、結局タイム・マシンを得た者が考えることは、畢竟同じことなのだった。








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