Open Range


ワイルド・レンジ/最後の銃撃  (2003年8月)

カウ・ボーイのボス (ロバート・デュヴォール)、チャーリー (ケヴィン・コスナー)、バトン (ディエゴ・ルナ)、モーズ (エイブラハム・ベンラビ) の一行は、牝牛を追って旅をしていた。途中、立ち寄ったある町で、モーズが悪徳保安官の手によって袋だたきの目に遭ってしまう。ボスとチャーリーはその仕返しに赴き、その結果、逆にモースは殺され、バトンも半死半生の目に遭う。ボスとチャーリーは怪我をしたバトンを町の医者の妹スー (アネット・ベニング) に預け、復讐の決闘の場へと向かう‥‥


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最近はヒット作に恵まれないケヴィン・コスナーが、久し振りに得意の西部劇を監督/主演する。最近、超常現象ものの「コーリング (Dagonfly)」や、よくわからないピカレスクものの「スコーピオン (3000 Miles to Graceland)」等に出演していたりしたが、それほどぱっとせず、まあ、「13デイズ」は作品としてはよかったがやはりヒットしたとは言えず、多分、一応はヒットしたと言えるのは、96年の「ティン・カップ」まで遡らなければならないんじゃないだろうか。


というわけで、出世作「シルバラード」、アカデミー賞受賞作「ダンス・ウィズ・ウルブズ」と、一応得意の分野と言える西部劇に帰ってきたのは、たとえ時代が西部劇の時代ではもうないと言われていようとも、本人にとっては当然の帰結だったように思われる。とはいえ「ワイアット・アープ」もかなり強烈にこけてはいたんだが。


とはいえ、西部劇も、廃れたとは言われているけれども、完全になくなったわけではない。特にTV界ではケーブル・チャンネルのTNTが定期的に西部劇のTV映画を編成し、その度に高い視聴率を獲得している。今ではトム・セレックなんて、TNTご用達の西部劇俳優としてしか知らない者も多いだろう。映画でも、年末には「アラモ」とかが公開されるし、あのマーティン・スコセッシが西部劇を撮るという話もある。西部劇というジャンルの人気は根強いものがあるのだ。


しかし、今後いくつか西部劇が公開される予定があるとはいえ、この「オープン・レンジ」ほど正統的な西部劇はまずないだろう。主人公は堂々とカウボーイとして牛を追って大陸を横断して生計を立てているのであり、その途中でトラブルに巻き込まれ、最後は悪者保安官との一騎打ち、そしてその間にも町に住む女性との間に仄かな愛情が芽生え、と、西部劇の王道を行っている。


もちろん、ジョン・フォードやハワード・ホークスのような古きよき西部劇というのとはかすかに違うが、それでもクリント・イーストウッドの「許されざるもの (Unforgiven)」のような西部劇への挽歌になっているわけではなく、やはり正統西部劇として作られている。そもそも西部劇の魅力というのは、贅肉を削ぎ落としたシンプルな設定による、物語としての基本的な面白さに負うところが大きい。イーストウッドといい、コスナーといい、西部劇を経験した者が演出家としての力もあるのは、このジャンルが作劇術としての基本を学ぶことに大きく役立っているからだろう。


「許されざるもの」は、そのシンプルな物語に、逆に現代的葛藤を持ち込んで評価されたわけだが、あれは西部劇ファンから見れば、愛憎半ばする類いの映画だったように思う。それに較べれば今回は、上から見ても下から見ても、堂々たる西部劇である。それでも主人公が少し暗めの過去を背負っているというような設定もないことはないが、その骨子は揺るがない。


それに、コスナーを筆頭に、ボスに扮するロバート・デュヴォール、気のいいモースに扮するエイブラハム・ベンラビ、まだ若造のディエゴ・ルナなど、配役もいい。特に「天国の口、終りの楽園 (Y Tu Mama Tambien)」のルナの背伸びぶりがはまっている。悪役一味の親玉に扮するマイケル・ガンボンも堂々たるもので、さらには、既に妙齢という歳ではなくなったヒロインを演じるアネット・ベニングが、楚々とした魅力を発揮している。いやあ、ベニングって、綺麗じゃないか。


西部劇はシンプルな物語としての魅力もさることながら、大の大人が子供のように振る舞うことが許されるジャンルとしての魅力も捨てがたいものがある。だいたい、中年にもなろうという大人が泥だらけになって地面を這いつくばって、それで嬉しそうにしてたり、嬉しそうではなくても、どれだけ登場人物が埃まみれになったり、汚くなったりするかが作品のできの一つの指標になるなんてジャンルは、西部劇とホラーくらいのものだろう。今回も、コスナーはその辺はちゃんとわかってて、率先して泥だらけになったり、雨の中をずぶ濡れになったりする。


その古典的な西部劇で、最も現代的に見えたのが最後の決闘シーンで、かなり近いところで撃ち合っても、なかなかお互いの弾が当たらない。10mくらいしか離れてないのに無駄弾使いまくりなのだが、これは実際に、現実に撃ち合いというのはそういうもので、それを忠実に再現しようとしたからという気がする。どこかで読んだのだが、ライフルならともかく、拳銃というのは、10m離れただけでかなり当たらないものだそうだ。それが動きながらだと、なおさらだろう。しかしそういう演出が緊迫感を削ぐかというと、そんなことはなく、当たらないため、よけいに緊張したりする。それが現代的な西部劇の演出というものになっている。


で、最もどっちつかずに見えたのもこの最後の決闘シーンで、悪徳保安官に対して勝負を挑むコスナーたちに刺激を受け、それまで黙って耐えていた町の者たちも立ち上がる決心するのだが、彼らがどうしようとしているのかがよくわからない。ただ集団で黙って一方に固まって立って、決闘の様子を見ているだけだったりするのだ。それなのに途中で加勢したり、また黙って見てたり、彼らが何をしたいのかがよくわからない。ええい、うざったい、どっちかにしてくれと思うのだが、それでも、一般市民というのは、そういう、自分たちから自主的に何かを始めるというもんでもないという、これもリアリティを重視した演出かとも思う。クラシックなジャンルでも、時代と共に演出スタイルは変わってくる。







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