Y Tu Mama Tambien (And Your Mother Too)

天国の口、終りの楽園。  (2002年4月)

昨年の「アモーレス・ぺロス」に続き、またまたメキシコ産の映画である。映画祭サーキットでの公開ではなく、ちゃんと配給に乗った一般公開だ。一応評価が確立しており、定期的に公開されるフランス映画を除けば、たとえ年1本といえども定期的に外国映画が公開されるのは、字幕つきの映画が一般公開になることなぞ珍しいアメリカにおいては、快挙と言える。なかなかメキシコも映画産業は活発なようだ。予告編を見ていたら、その「アモーレス・ぺロス」での鬱々とした演技でわりと印象を残したガエル・ガルシア・ベルナルも出ており、その彼が今度は陽気な? 青年役をやるというのも気になった。


高校生のフリオ (ベルナル) は政界の大物の息子のテノーチ (ディエゴ・ルナ) とつるんで毎日悪さばかりして過ごしている。二人共ガール・フレンドがヨーロッパに出かけてしまい、退屈な夏を持てあましていた時、出席した結婚式の会場で、年上の女性ルイーザ (マリベル・ヴェルデュ) と出会う。二人は口からでまかせでありもしないビーチの名をでっち上げて、泊まりがけのビーチ旅行に一緒に行かないかと持ちかける。冗談半分で誘ってみただけだったのだが、ルイーザの夫が浮気したことが発覚してしまったために、その腹いせもあってルイーザはテノーチに電話をかけ、ビーチ旅行に同行すると告げる。慌てたテノーチとフリオは、急いで車を調達し、本当は自分たちもどこへ行くのかわからないまま、3人は気ままなロード・トリップに出かけるのだった‥‥


ベルナルは今回は「アモーレス・ぺロス」と違ってわりといいとこの坊ちゃんという設定になっているわけだが、そのベルナル演じるフリオと、悪友のテノーチが若さと環境にものを言わせて手当たり次第にセックスを求める、その情熱というか、若さにまず圧倒される。まあ、私の若い頃のことを考えても、あの年頃というのはエネルギーがあり余っているから、とにかくそれしか頭にないというのはわからんではない。変に若い頃を美化して追想しようとする作品なんかより、よほど好感が持てる。しかし、それでも、おまえら少しは本を読んだりせんかと言いたくもなる。が、それもメキシコと似たような沖縄というほぼ亜熱帯の環境で育った私の若い頃を思い出すと、やはりわからんではない。暑いと頭がぼうっとしてきて、本なんか読めないのだ。昔は自分の部屋にクーラーなんてなかったし。その年頃の男というものが一発やることしか頭にないのは、実によく理解できる。私の周りにもそういう奴の方が多かった。


それに3人が幻のビーチを求めて車で田舎を走っているところも、車の中からとらえた風景が、うちの田舎と結構似ているのだ。やはり気候が似ると家の作りや文化も結構似てくるもんだという感じがした。その上メキシコはアメリカと地続き、沖縄はアメリカ占領下にあったという関係もあって、共にアメリカの影響を大きく受けている。ふとした一瞬にスクリーンに映るものが、そういう、何か懐かしいものを見ているような気にさせる。たまにはそういう懐古趣味も悪くない。


しかし、その道端で憲兵のようなものに尋問されている一般市民の姿が何度も挿入されているのは、今のメキシコの現状を憂えているのか。それにしては監督/脚本のアルフォンソ・クアロンはそれに対して何かを糾弾するという考えがあるようにはあまり見えなかった。ただそれがメキシコの現実であり、これが日常的な風景だからそれを撮ったまでという感じがしたが、しかし、それにしてはそういうシーンがやたらとあったのは事実。あそこまでこだわるからには本当は何か言いたかったか。そういう一般市民の現実と、わりと上流階級のフリオたち3人とを比較したかったとか? よくわからない。概して多分意識しただろう政治的や社会的なコメントは、ここでは成功していないように見受けられる。


わりとインディっぽい映画のように見えたのだが (配給がインディ映画専門チャンネルのIFCというのは、さもありなんと思わせる)、特に最初の方の結婚式のシーンとか、結構の数のエキストラを使っており、それなりに金はかかっているようだ。車で田舎を流している時も、まず対抗車が来ないよう道路を撮影のために封鎖して、並行して走る車から撮っているのが間違いないシーンも幾つもあった。ゲリラ的撮影のインディ映画でそこまでやるのはほとんどない。というか、普通はできない。監督のクアロンは「大いなる遺産」や「リトル・プリンセス」等のハリウッド作品も撮っており、そのためわりと金をかけて自由に撮りたいものが撮れたんだろう。


しかし「大いなる遺産」はともかく、「天国の口、終りの楽園。」は少なくとも「リトル・プリンセス」からは大分隔たった位置にあるよなあ。現在、「アモーレス・ぺロス」のアレハンドロ・ゴンザレス・イナリツ、「ミミック」、「ブレイドII」のギレルモ・デル・トロと並び、メキシコの若手三羽烏の一角を占める監督である由。撮影は「プリンセス」、「遺産」に次いでクアロンと組むエマニュエル・ルベッキで、最近では「スリーピー・ホロウ」「アリ」等、若手ではダリウス・コーンジーとタメを張っていい仕事をしているという感じがする。メキシコの光の加減のとらえ方は見事だったし、多分すべてのショットが手持ちなんだろう、全シーンで微かに揺れるカメラが、登場人物の気分を反映する効果をうまく出していた。ただ、時々入る意味のない移動は、クアロンの演出なんだろうが気になった。


いずれにしても、フリオとテノーチの乱行振りは、いくらなんでもおまえたち、もう少しは遠慮だとか熟考だとかいうことを考えんのかと、結構呆れるのは事実だ。私が若い頃も無茶苦茶やっている奴は結構いたが、それでもこれくらい派手にやっている奴はいなかったように思う。車の中で屁をこきあうなんてのはまだ可愛らしいが、小便をする時に片足で便器の蓋を持ち上げながら用を足すなんてのは、そこまで不精するな、てめえら躾けがなってないと言いたくなるし、二人して一緒にマスターベーションしながら精液をプールに飛ばすのなんて最悪だ。その後そのプールで誰か泳ぐんだぞ。わかってんのかおまえら。ああ、気持ち悪い。しかし、実はこの二人、画面に現れるのよりもっと過激なことをしていたというのは、最後の最後になって酔いの回った告白の段階になって初めてわかるのだが、おまえら、それ、人間じゃない。獣だ、獣。


この映画を気に入るかどうかは、そのフリオとテノーチの乱行振りをどこまで容認できるかにかかっていると言えよう。私も見ていながら、うん、わかるわかる、そういうもんだよねえという気持ちと、げえー、そこまでやるか、おまえら最低! という気持ちと両方を交互に感じながら見ていた。おかしいのはそういう無軌道振りを遺憾なく発揮している癖して、二人の間にはどこかしら一般的な常識では計り知れないが、二人だけに通用するラインというか、ある種の約束がはっきりと引かれているようなところである。例えば、ルイーザは最初テノーチとできちゃうのだが、それを見ていたフリオは、あっさりと二人には気づかれないように引き下がってしまう。それで何をするのかというと、いじけて一人でプール脇で足をばたばたさせちゃったりなんかするのだ。


これはテノーチも同じで、ルイーザがその後気まずくなった二人をなんとかしなければと、それにはフリオとやっちゃうしかないと、フリオともやっちゃうのだが (こういう短絡は大いに結構)、後部座席でやり始めた二人を残して、テノーチはちきしょうとばかりに車から飛び出して、やはりこちらも木の根元で一人いじけてしまう。なんか、もう、こんなデリカシーのかけらもないような奴等が、変にいじけるところが笑えるというか、おまえら女々しいぞと怒鳴りたくなる。それまで好き放題しておきながら、この意気地のなさは腹立ちものだ。この根性なしが、先に女をとられたんだったら自分も後から参加して3Pにするくらいしないかい、なんでそこでそんなにめそめそする。この辺りの私にはわからない二人だけの (つまりは監督の) メンタリティというものには苛々させられた。そんなことで挫けるくらいなら最初から真面目な優等生でいろ! おまえらに不良する資格はない。ま、別に本人たちは気ままにやっているだけで、不良しているというような感覚は最初からそもそも持ってないか。


結果的に二人を振り回すルイーザ役のマリベル・ヴェルデュは、せめてもう少し美人であればテノーチとフリオのこういう行動にも説得力がついたのにと、ちと残念。メキシコではヴェテランのようでもあり、すました顔は悪くないのだが、泣き顔になると出っ歯なのがばれる。わりと泣くシーンが多いのに、泣き顔が魅力的な女優を持ってこれなかったのは失敗だった。泣き顔以外は嫌いじゃない顔なんですが。彼女がテノーチとフリオと同行を決心するきっかけとなる夫の浮気を電話で知って泣き出すシーンの唐突さなんかは結構違和感があり、彼女のキャラクターの描き込みは手を抜かれているという感じがした。結局彼女は主人公じゃないということか。


しかし、この3人のロード・トリップが最後の若気の至り的な乱痴気騒ぎとなり、その後あれだけ仲のよかった二人がぷっつりと音沙汰がなくなるというのはよくわかる。そういうのってあるよなあ。ある時無茶苦茶仲がよかった奴って、自分の恥ずかしい部分もすべて知っているから、結局自分の鏡みたいなもんになって、段々会うのが恥ずかしくなったり苦痛になったりする。若い頃の親友って、そういうのも乗り越えて本物のブラッド・ブラザーみたいなものになるか、あるいはその時期以降はぷっつりと連絡をとらなくなったりする。結局そういう時代を経て、皆成長し、大人になっていくんだろう。最後のシーンは、そういう大人になる一歩手前の微かな心の痛みや成長の手応えみたいなものが確かに感じられた。多分、もう、あんな乱痴気騒ぎに浮かれるなんてことは二度とないだろう。うん、そうやって皆大人になるんだよ。







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