Dragonfly

コーリング  (2002年2月)

不思議なもので、映画というものはいったん見るチャンスを失ってしまうと、次に見る機会がやってきても、その時は既にもう見る気をなくしている場合が往々にしてある。私の場合、今回はシュワルツネッガーの「コラテラル・ダメージ」がそうだ。周知の通り「コラテラル・ダメージ」は当初昨年9月に公開予定だったが、同時多発テロの影響を受け、公開が延期になっていた。そして今やっと公開されているわけだが、たかだか半年弱延期されただけなのに、もう、既に旬を逸してしまったという感じがする。


私は定期的にシュワちゃん主演のアクションものを見てすかっとしたいと思っている口なので、シュワルツネッガー主演のハリウッド・アクション大作はほとんど欠かさず見ているのだが、今回だけはなかなか乗り気になれない。内容がテロで妻子を殺された男の復讐譚ということだからではなく、ただ、単に、時機を逃してしまったものを目の前に出されても食指が動かないだけだ。これが昨年公開されていたら、たとえテロ事件直後であろうと、私は見に行ったと思う。でも、今さら、はい、ではもう一度、と出されても、いったん、なんだ見れないのか、と思ってしまったものをまた見ようという気にはなれない。この映画ファン心理、どういうもんなんでしょ。


それに、最近のシュワルツネッガー作品は、今一つ面白くなかったというのも確かにある。それなのに最新作の公開延期ということになったら、やはり見る気がしぼむ。というわけで、映画としての規模から言うとこちらの方が全然小さい、公開したばかりのケヴィン・コスナー主演の「コーリング」を見に行った。よほど見たいと思うものでもない限り、どうしてもその週に公開したものを優先してしまう。自分で率先してそういうことをしといて言うのもなんだが、やはり興行は水物だ。


医師のジョー (コスナー) には愛する妻エミリー (スザンナ・トンプソン) がいたが、彼女は赤十字の救助活動で赴いたベネズエラで事故に遭って帰らぬ人となる。それ以来魂の抜け殻のようになってしまうジョーだったが、彼の病院に運ばれてきた臨死体験をした子供たちが、なぜだか見ず知らずのジョーの名前を知っており、エミリーがジョーを呼んでいるという。最初半信半疑だったジョーは、自分も似たような経験をしたことで、彼女が自分に何かを告げたがっていることを確信するようになる。しかし何を? ジョーは必死になってエミリーとコンタクトをとろうと試みるが‥‥


コスナーもの、と言っていいと思うが、コスナーが主演する映画って、本当にコスナーが最初から最後まで出ずっぱりな作品が多い。この作品も例に漏れず、本当に最初から最後までコスナーが出ずっぱりである。作品の95%以上にコスナーが映っているんではないかと思われるくらい、スクリーン上を占める。まあ、この手の作品って、こないだの「モスマン・プロフェシース」でも主人公のリチャード・ギアが最初から最後まで出ずっぱりだったし、 一人の主人公を軸に話が展開するので、どうしても特定人物ばかりをカメラが追いかけることになるのはわかる。観客は主人公と同化し、謎が解き明かされていく過程を主人公と同じように体験することこそこの種の作品のミソだから、そういうふうになるのはどうしてもしょうがないだろう。


それに私は実は結構コスナーが好きなのである。この人、時にまったく場違いと思える作品に出て、まったく場違いな印象を残したりすることがあるが、そういう時でもなぜだかいつも一生懸命な印象を与えるので、なんとなく感心してしまう。その辺、やはりいつも熱心にやっているように見えても、その後ろに計算が見え隠れするトム・クルーズのようなハリウッド・スターとはちょっと印象が違う。スターらしからぬ甲高い声や、ヒット作でも失敗作でも真面目にやって、時に大コケして叩かれたりしているのを見ると、なんとなく身近な心証を受けるのだ。「コーリング」でもそうで、ともすればまったく荒唐無稽に見えそうな物語を真面目に演じているので、話が信用できるかそうでないかはともかく、最後までつきあってしまう。


こういう映画が製作されるのは、やはり「シックス・センス」の大ヒットによるところが大きいだろう。この世とあの世との交感というのは、昨年の「アザーズ」のサプライズ・ヒットでも証明されたが、最近の流行りだ。その上コスナーは、「フィールド・オブ・ドリームス」という、その手の先駆的作品に主演している。またこういう作品を作ろうと思っても不思議はない。


しかし「コーリング」がそれらの作品と一線を画しているのは、最初「シックス・センス」の乗りを維持していたかに見えた作品が、後半、いきなりまったく別の展開を見せ始め、ローランド・ジョフィの「ミッション」か、ジョン・セイルズの「Men with Guns」になってしまうところにある。それまでは荒唐無稽っぽいなと思って見ていた作品が、本当に荒唐無稽になってしまうのだが、その辺の話の飛び方、あるいは力技は、ほとんど感動的とさえ言える。私にとって話そのものが感動的なのではなく、こういう話を大真面目に演じているコスナー本人の方がよほど感動的に見えるのだ。やはりこういうのって、製作している側がどれくらい思いを込められるかが観客を引き込めるかどうかの重要なポイントだと思うのだが、その点、クライマックスのコスナーの思い入れ度は軽く及第点を超えている。これだからコスナーって侮れない。


しかし、そのために批評家から酷評されているのも頷ける。こういう映画を誉めてしまっては、批評家の沽券にかかわるのだろう。キャシー・ベイツとリンダ・ハントのもったいない使われ方も、欠点の一つ。特に尼僧役のハントは、たったあれだけの出番のためにわざわざ担ぎ出されたというのが意外なくらい。ベイツだって、単なる隣人としてだけでなく、もっと話に絡まってくるかと思ったら、頼りになる隣人の域を出ない。彼女の死んだ娘? のことまで出してキャラクターを作ってたのに、本人の活躍の場はほとんどない。ハントに至っては、本当に出番はこれで終わり? いくらなんでもそんなことはないだろう、後でもう一回出てくるんでしょう? と思っていたのに、本当にそれっきりになってしまった。あれではもったいなさ過ぎる。わざわざ身重の身でベネズエラまで赴くエミリーの理由にもほとんど説得力はない。病院でのディレクターを演じるジョー・モートンも、もうちょっと悪どくするなり善人にするなり、どっちかにした方がよかったのに。


監督のトム・シャドヤックは、聞いたことないなあと思っていたら、「エース・ベンチュラ」、「ナッティ・プロフェッサー」、「ライアー・ライアー」と、実はほとんどの作品を見ていた。だって、初期のジム・キャリーのコメディを、誰が監督したかを気にして見ていた人ってあまりいないだろう。そろそろコメディだけじゃなく、他のジャンルにも進出しようと思ったようだ。通常、コメディを撮れる監督はシリアスな作品だって撮れるので、こういう作品を撮っても考えれば不思議じゃない。


因みにタイトルの「コーリング」とはもちろんトンボのことなのだが、エミリーがその形をしたあざを右肩下に持っており、本人もトンボが好きでトンボをモチーフにした様々な装飾品とかを持っていたりする。それで「コーリング」なのだろう。私は映画の中で子供たちが描く歪んだ十字架のような奇妙な絵もトンボを意味しているとばかり思っていたら、そうではなかった。あれも見ようによってはトンボに見えなくもないし、この辺の曖昧さも今一つ。もしかしたら欧米ではトンボは死者の魂を運んでくるとか何とかいった言い伝えでもあるのだろうか。しかしこういった欠点はあるにしても、この作品、なんか、私はあまり貶す気にはなれない。はっきり言って内心無茶苦茶だ、と思いながら最後まで見てしまった。将来、もしたまたまこの作品がTVでかかっていたとして、それをたまたま見ていたとしても、やはりまた最後までつきあって見てしまいそうな気がする。要するに、たとえ欠点はあっても、私は「コーリング」を結構面白く見たのだ。







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