My Blueberry Nights


マイ・ブルーベリー・ナイツ  (2008年4月)

ニューヨークの小さなカフェ。恋人が他の女性といるところを見たエリザベス (ノラ・ジョーンズ) はアパートの鍵をカフェのマスターのジェレミー (ジュード・ロウ) に渡して伝言を言付けるとあてのない旅に出る。彼女が訪れたのはテネシー州メンフィスで、そこのバー・レストランでウエイトレスとして働き始めたエリザベスは、関係のこじれた夫婦のアーニー (デイヴィッド・ストラザーン) とスー (レイチェル・ワイス) を目にする。次にエリザベスが訪れたのはラスヴェガス近くの町で、そこのカジノで出会った負けの込んだ女性レスリー (ナタリー・ポートマン) に懇願されたエリザベスは、なけなしの貯金をレスリーに貸してやるが‥‥


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予告編を見てなんとなく今イチっぽいなあと思わせたアル・パチーノ主演の「88ミニッツ」が、案の定貶されている。エンタテインメント・ウィークリーでは本当にとことん見るべきものがない作品にしか与えられないF (落第) 評価がついてたし、デイリー・ニューズを見たらこれまた普通は見られない「★なし」という零点評価になっていた。それでどうしようかと迷っていたが今回はパスし、安心してウォン・カーウァイの「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を見ることにする。


ところで先日ニューヨーク・タイムズのアート欄を見ていたら、そのカーウァイの監督デビュー作「いますぐ抱きしめたい (As Tears Go By)」が公開になっており、そのレヴュウが載っていた。どうやらアメリカでは「 いますぐ抱きしめたい」はこれまで劇場公開になっておらず、映画祭サーキットを別にすれば、これがスクリーン上で見れる最初の機会らしい。とはいっても上映はマンハッタンではなく、ブルックリンのBAM (Brooklyn Academy of Music) 付帯施設のローズ・シネマというアート系シアターなのだが、それでも過去のデビュー作をわざわざ持ち出してくるほどの知名度があるというか、注目はされていると言える。正直言って私もカーウァイの名を初めて聞いたのは「恋する惑星 (Chungking Express)」が最初であって、それ以前の作品は見ていない。カーウァイはニューヨークのシネフィルからも結構支持されているんだなという感触を受ける。


さて「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は、なんといっても人気シンガーのノラ・ジョーンズの俳優デビュー作ということでも注目された。人気シンガーといっても一応ジャズ・ヴォーカリストとしてジャンル分けされるジョーンズは、特に若い人まで万遍なく人気があるというのとは違うと思うが、それでも知名度は世界的だろう。現在のジョーンズは映画とは違って髪を短く切っており、実はそれがよく似合ってとても可愛い。


こないだも映画の封切りに合わせて深夜トーク・ショウの「レイト・ショウ」にゲスト出演してついでに歌も披露していたが、歌よりも、ジョーンズってこんなに可愛かったっけと思ってしまった。「ライヴ・フロム・アビー・ロード」の時とだいぶ印象が違う。「ブルーベリー」も「アビー・ロード」も撮影は時期的にはそんなに違わないと思うのだが。実は私はニコール・キッドマンも髪は短い方が可愛いと思っていたのだが、ケイティ・ホームズといいジョーンズといい、短い髪の方が似合うと思う。というか、元々目鼻立ちのくっきりしている子は短い髪も似合うということなんだろう。それにしても女性は髪の長さだけでかなり印象変わる。


実はカーウァイからジョーンズに対して映画に出ないかというオファーは、ずいぶん前にあったそうだ。しかし一般的によく知られているわけではないチャイニーズの映画作家からのオファーがあっても、当時のジョーンズはカーウァイが何者かわからず、保留になっていたということだ。その後カーウァイ作品を見てその独特の審美眼に感ずるところのあったジョーンズはカーウァイにまだ私を使おうという気はあるかと連絡をとって、それでこの企画が実現したそうである。


とはいえジョーンズは、演技面ではやはり素人の域を出ていない。むろんカーウァイだってそのことは充分承知のオファーであり、ジョーンズ起用は、どことなくふわふわと柔らかいイメージを持つジョーンズの、空気のように漂っているような存在感が欲しかったのだろう。


実際ここでのジョーンズ演じるエリザベスは、一応主演というビリングであるが、実質上、彼女が旅先で出会う人々の記録者としての立場以上のものをほとんど感じさせない。メンフィスでは悲劇的結末を迎えるアーニーとスーのカップルに最も近い立場にいながら、彼女の存在はカップルに対してなんの影響ももたらさない。エリザベスはただ近くにいてその顛末を葉書に記録してニューヨークにいるジェレミーに送り届けるだけで、せいぜいすべてが終わった後に残されたスーを慰めるくらいのことしかできない。


ラスヴェガスでも、エリザベスは負けの込むレスリーに懇願されて金を貸しはするが、彼女が勝ったり負けたりすることにはまったく関係しない。いずれにしてもエリザベスの方から行動することはなく、彼女はたまたまそこにいて、事態を目撃し、記憶に留める記録者の役目をただ求められるだけだ。こういうエリザベスの印象は、まわりを手だれの演技派が固めていることでよけいに強調される。ジョーンズ以外は、出番が1シーンしかないジェレミーの昔のガール・フレンドすらうまいと思わせる。


このように、エリザベスはただ第三者的記録者以上のものではないように見えるが、しかしメンフィスでのスーも、ヴェガスでのレスリーも、そういうエリザベスにかなり救われていることも確かだ。時には自分の内情をよく知らないまったく赤の他人だからこそ愚痴や本音を漏らせるということはあり、しかもエリザベスの持つまったく押し付けがましくない存在感が、そのことに拍車をかける。エリザベスは主役でありながら傍観者でもある二役なのだ。


そしてジョーンズが体現しているこの、人の内側に踏み込まない空気のような存在感こそが、カーウァイが求めていたものだ。ジョーンズに俳優として次の作品が待っているかどうかははなはだ疑問だが、この作品におけるジョーンズの、浮遊する存在感は、ジョーンズ以外では到底体現できなかっただろうと思われる。たぶん、こういう役は実力のある俳優であればあるほど表現が難しいだろう。というか、その場合はカーウァイが考えているのとは違うものになってしまうに違いない。


ところで私は昔、「記憶の棘 (Birth)」を見ていて、それに出ているアリソン・エリオットを見て、ジョーンズが出ているとカン違いしたことがある。今回「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を見ていて、その時のことを思い出した。その時私はエリオットを見て、彼女が太ったためにエリオットと気づかず、てっきりジョーンズが俳優デビューしたと思ったのだ。ジョーンズが体重過多とはまったく思っていないのだが、しかし太った誰かさんと間違えられるのはジョーンズも心外に違いない。申し訳ない。


タイトルにも使用されているブルーベリーは、ブルーベリー・パイとして作品内に登場する。ブルーベリーは私がバナナの次に好きなフルーツで、毎夏シーズンになると、ほとんど毎日のように1パウンドのパック入りを買ってきてばくばく食べる。元々好きだったのだが、アメリカに来たら、旬になると1パウンドが2ドル程度まで下がるのを知って心おきなく食うようになった。それだけをばくばく食うので、うちの女房があきれるくらいなのだが、飽きない。そのブルーベリー・パイが、作品内では売れ残るパイとして登場するのが不満だが、しかし、パイは私も好きでないのだった。ブルーベリーはそのまま食うのが一番。映画ではブルーベリー・パイにアイス・クリームを添えて食べていたが、アイスではなくホイップ・クリームがベストなのにと思いながら見ていた。むろん人の好みはそれぞれだが。


そのブルーベリー・パイのスーパークロース・アップが冒頭をはじめ何度か出てくるのだが、私は最初それがなんだかわからなかった。エリザベスがブルーベリー・パイを注文したからわかったのだが、なんか生き物の内蔵のようで、一瞬カーウァイというよりもデイヴィッド・クローネンバーグを思い出させる。撮影はダリアス・コーンジー。


「ブルーベリー・ナイツ」はジョーンズという世界的ミュージシャンを主演女優に起用していながら、彼女の音楽は、使われていないわけではないが、特に前面に押し出されているわけではない。ジョーンズの音楽はこの作品に合わないことはないと思うのだが、音楽監督としてクレジットされているのはライ・クーダーで、カーウァイがここで求めていたのはどちらかというと「パリ、テキサス」だったのだなと知れる。とはいえ映画を見終わった後で最も私の頭の中に残っていたのはオーティス・レディングだったりする。レディングの曲全般が特にこの作品に合うというのとは違うと思うが、「Try a Little Tenderness」ははまっていた。結局私は映画を見終わった後、アパートに帰ってジョーンズの曲ではなく、クーダーの曲でもなく、レディングのCDを聴きながら作品を反芻しているのだった。







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