10年前に夫を亡くしたアナ (ニコール・キッドマン) は、10年をかけてやっとその心の傷も癒え、長い間彼女のことを気にかけ、ずっと待っていてくれたジョセフ (ダニー・ヒューストン) の求愛に答え、結婚の申し込みを受ける決心をする。しかしその直後にアナの前に一人の少年が現れ、自分自身をアナの前夫ショーンの生まれ変わりであると告げ、ジョセフとの結婚に反対する。周囲に波紋を引き起こす少年だったが、実際に彼は夫のショーンしか知らなかったようなことを知っているのだった。少年は果たして本当にショーンの生まれ変わりなのか、疑問を抱えつつも、アナは段々ショーンの言うことを信じ始める‥‥


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なんやかや言いつつ、ニコール・キッドマンが現在、世界で最も求められている女優だというのは間違いのないところだろう。普通、ハリウッドの主演級の映画俳優というものは1年に1本の主演作があれば充分以上に食っていけるし、それが大作の場合だと、その準備にかかる時間なんかもあるから、実際にそれ以上出るのは難しい。年2本以上は物理的に無理なのだ。ちょっと余裕ができると、すぐ2、3年に1本くらいしか出なくなったりする。


それがキッドマンの場合、昨年「めぐりあう時間たち」「白いカラス」「コールド・マウンテン」、今年「ドッグヴィル」「ステップフォード・ワイフ」、そして「バース」と、2年間で6本の主演作が公開されている。出演作ではなく、全部主演、しかもそのほとんどがかなり金のかかった大作級の作品なのだ。これだけの頻度で主演作が公開される俳優というのは、ハリウッド全部を見渡してもまず見当たらない。


キッドマンの場合、その上それらの多くが問題作でもあるというところがまた、他の女優と一線を画している。今年度のヴェニス映画祭で「バース」が上映される時に、その内容に対してカソリック教会から横槍が入り、上映禁止運動が起こったというのも記憶に新しい。さらにキッドマンは、綺麗な女優であるが、それだけの女優であるということを潔しとせず、脱ぎっぷりもいい。一つのはまり役や固定したイメージに安住せず、これでもうちょっと演技力さえつけば、文句なしに世界を代表する女優だろうと思っていたが、実際、最近はそういう微妙な表情を表す表現力もついてきたようで、ちと文句のつけようがない。強いてケチをつけるとすれば、もうちょっと歌がうまければというところか。


キッドマンは元々大仰な演技が癖、と言うか持ち味であるため、「ステップフォード・ワイフ」のようなライト・コメディに無理なく収まるが、その一方で体育会系的根性肌のところがあり、実はどことなく偏執狂的な印象もあるのも事実だ。そのため、思い込んだら命がけ的な役柄でもかなりはまるところがある。「コールド・マウンテン」なんてまさにそれだったし、「ドッグヴィル」だって「ムーラン・ルージュ」だってそうだ。「バース」もその延長線上にある。10年間も死んだ夫のことが忘れられないのは、愛情厚い貞淑な妻というわけであり、別に責められる筋合いは何もないのだが、しかし、よく考えれば絶対にどこかおかしい輪廻転生譚を頭から信じ込んでしまうというのは、やはり冷静さを欠いているとしか言い様がない。しかし、キッドマンってそういう役が合うんだよねえ。


一方で「バース」は、そのまったりと進む作品のリズム、上流階級を舞台としていることもあって、エレガントなキッドマンを堪能できる作品でもある。一つ一つの挙措動作が、いかにも上流階級というような上品さを醸し出しており、元々育ちがよいのだろうなと思わせる。また、「ステップフォード・ワイフ」を見て以来、私はキッドマンはブロンド長髪よりもブルネット短髪の方が似合うし、絶対こっちの方が可愛いと思っているのだが、今回、髪の色こそ栗色だとはいえ、やはり髪は短い方がその美しい顔の輪郭を際立たせるということを再確認した。


キッドマン以外では、ローレン・バコール、ピーター・ストーマーというラース・フォン・トリアー作品の経験がある俳優が出ていることにも気づくが、特にバコールは、「ドッグヴィル」でキッドマンをねちねちと苛め、ここでもキッドマンの母として、キッドマンに君臨している。スクリーンに登場する時間はそれほど多くはないのだが、強い印象を残すストーマーの妻役でアン・ヘイシュが出ており、この人、主演よりもこういう癖のある脇の方がいい味を出す。


最も意外だったのがキッドマンの妹役のアリソン・エリオットで、私は最初、ノラ・ジョーンズが俳優デビューをしたのかと本気で思った。それが「この森で、天使はバスを降りた」のエリオットと知った時の衝撃はかなりのものだった。この太りようはいったいなんだ。それともそういう役の上の要請があったのか。そして、不気味に説得力のある生まれ変わったショーンを演じるキャメロン・ブライトは、ちょっと気味が悪いくらいだ。少しオーヴァーウエイト気味で白ムチで、私なら、こういう坊やが私の知人の生まれ変わりだとかなんとか言って身の回りに近づいてきたら、話の信憑性以前に、とっとと蹴りを入れて追っ払うところだが。あんたにはホラー映画が向いていると思う。


ところで「バース」は、ニューヨークがニューヨークに見えない作品としても特筆に値する。冒頭の冬の雪の降り積もった林の中のジョギング・シーンを見て、一目でそれがマンハッタンのど真ん中のセントラル・パークということに気づく者はあまり多くはあるまい。私もマンハッタン在ではないといえニューヨークに住んでいるが、まったく気づかなかった。ヨーロッパのどこかだろうとばかり思っていた。さすがにヨーロッパって、建物が見えなくても自然まで雰囲気があるなあとばかり思っていたのだ。それがマンハッタンを舞台としているのに気づいたのは、街並みが映り始めてからで、それでも市バスが映るまでは、これ、本当にマンハッタン? と半信半疑だった。そして、もちろん、そのように意図的に場所をぼかし、閉鎖的な社会を提出しようとしているわけだ。


実際、本当の上流階級というのは、決して出しゃばらず、人前に出ないのは洋の東西を問わない。マンハッタンのアッパー・イーストはそういう人たちが多く住んでいるのだが、「バース」はほとんど排他的とすら言えるそういう階級の人々の雰囲気をよくとらえている。はっきり言って閉塞的で息苦しそうな世界で、私としては金持ちじゃなくてよかったと思わず減らず口を叩いてしまいたくなる。堂々とNBCの「ジ・アプレンティス」のようなTV番組のホストをやっているドナルド・トランプが、いかに成り上がり者かというのがよくわかる。


監督のジョナサン・グレイザーは、これが「セクシー・ビースト」に続き、劇場用映画としては2作目。わりと批評家からも好評だったという憶えのある「セクシー・ビースト」に較べ、「バース」はその論議を醸す内容のせいもあり、今度はかなり叩かれているという印象を受ける。本質はかなり保守的なアメリカの観客にも受けず、興行成績は散々だ。しかし、作品を最後まで見ればわかるが、「バース」は、実は輪廻転生をテーマとしているわけではない。たぶん、最初から興行的には難しいだろうということは関係者はわかっていたと思うが、それでも、トリアー作品のように神様を絡めることなくこういうスリリングな作品を見れるのは、観客冥利に尽きると私は思う。






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Birth   記憶の棘 (バース)  (2004年11月)

 
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