ベアトリス (ウマ・サーマン) は結婚式の日に、新郎および友人や神父夫妻等の関係者をかつての師ビルとその仲間に皆殺しにされ、かろうじて自分一人だけが生き残ったという過去を持っていた。復讐の旅を続けるベアトリスは、次の相手として、バド (マイケル・マドセン) の身辺を探っていた。しかしバドもそれは予期しており、不意をついて襲ってきたはずのベアトリスを返り討ちにして、棺桶に入れて生き埋めにしてしまう。ベアトリスはほとんど半狂乱になりながら脱出を試みるが‥‥


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話題を醸したクエンティン・タランティーノの「キル・ビル Vol. 1」の続編。最近の映画界を見ていると、「ロード・オブ・ザ・リングス」や「ハリー・ポッター」のような1年に1作のシリーズものがわりと成功しているから、「Vol. 2」もそれなりにいい線行くかもしれないと思ってはいたが、ちゃんと公開初週は興行成績でトップに立った。世の中にはそれなりにおたっきーな人々が結構いるようだ。


「キル・ビル」は私にとって、活劇映画に対するオマージュというよりはパロディとして映るのだが、それよりも、これはマンガだというのが最もしっくりくる。だいたい、主人公の不死身の活躍はいったいなんだ。いくらなんでも、普通、散弾銃で撃たれたら、人間なら死ぬだろう。それをほとんど手当てもしないで甦ってくるか? これは「ドラゴン・ボール」か「北斗の拳」じゃあるまい。他にも、その手のいい加減さ、強引なこじつけにはきりがなく、ストーリーとして見ると、「キル・ビル」ははっきり言って破綻している。


とはいえ、そういう唖然失笑するシーンを平気で描き、力技で乗りきっていくところが、なんといっても「キル・ビル」の醍醐味であり、少なくともこういう映画を撮れるのは、世界にタランティーノ以外いるまい。それにしても、冒頭、どこから見てもジョン・フォードの「捜索者」の焼き直しのショットが出てくるのには唖然とした。どう見てもオリジナルへのオマージュというよりは冒涜に見えてしまうこのショットに対して、冗談では済ませられなくなるフォード心酔家は世の中には結構いるような気がするが、どうなんだろう。最も印象的なカラー・フィルムの1シーンとして既に映画歴史の1ページに刻まれている「捜索者」をわざわざ白黒で撮り直すことに対して、あまりの傍若無人さに思わず首をすくめてしまいたくなる映画ファンも多いと思うのだが。それとも、筋金入りのフォード・ファンは、タランティーノのガキのお遊びなんかは歯牙にもかけないのかもしれない。


この手の大胆な演出で、今回、最も印象的だったのが、生き埋めにされるベアトリスの棺桶の内部をとらえた、ほぼ1分程度の真っ暗なシーン。当然、このシーンで私は、同様にスクリーンが真っ暗になったオードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」を思い出した。視覚媒体である映画で真っ暗なシーンを撮るというのは、転倒した面白さがあり、今回の効果としては、その後に灯りがつく時のインパクトの大きさという点で「暗くなるまで待って」に一歩譲るが、それでも、完全に真っ暗とは言えなかった (というふうに覚えているのだが) 「暗くなるまで待って」に較べ、本当にただの真っ暗な世界を音だけで押し切った実験精神には感心する。それにしてもたとえ真っ暗なシーンでも、スクリーン自体は白いため、その長方形の枠が前方にうっすらと浮かんで見える。


元々タランティーノ映画は、へ理屈の映画である。「レザボア・ドッグス」で、レストランでチップを上げるか上げないかで揉めるシーンや、「パルプ・フィクション」でのファスト・フードをめぐる掛け合いは、話を展開させる上ではほとんど奉仕していないが、登場人物のものの考え方を知らせる、あるいは別の一面を見せるという点では機能していないこともない。話の流れを断ち切ってもそういうシーンを入れる誘惑に勝てないのがタランティーノであり、それをオリジナリティとして誉め上げる者が多いのは知っているが、しかし、話を展開させる上での省エネ化、一貫性としては、やはり収まりはつきにくい。ま、最初から省エネで話を作ろうとする気なぞ毛頭ないこともわかるが。だからこそ本当なら90分くらいの枠が最もしっくりと収まるだろうと思える「キル・ビル」が、なぜだか2時間ずつの前後編なんかになってしまう。


今回はラストのベアトリスとビルの一騎打ちのシーンで、なぜベアトリスが組織から消えたか、それを追うビルが、なぜ、ベアトリスの夫や友人を皆殺しにしなければならなかったかが語られるのだが、特に、スーパーマンとクラーク・ケントを例にとるビルの語りが、タランティーノ映画の真骨頂とも言えるものだ。なんだかよくわからないが、思わずなるほどと頷いてしまいそうなへ理屈論理には、なんとはなしに言い含められそうになる。もちろんここまでつきあってきたんだから、へ理屈でもなんでも理由つけてくれとは思うが、たぶん、そのへ理屈を自分では本当に信じているのだろうと思えるところが、タランティーノ映画の強みであり、ずれ具合にも通じている。それはそれで得難い演出家だよなと思わざるを得ない。


ところでこないだFOXの人気番組「アメリカン・アイドル」を見ていたら、タランティーノがゲスト・ジャッジとして出ていた。たぶん、「キル・ビル Vol. 2」公開に合わせてのプロモーション的な意味合いがあったのだろうが、見ていて、おまえ、「パワー・ハウス」以外の形容詞を知らんのかと茶々を入れたくなるようなコメントをしており、この男、私生活ではバカにしか見えないだろうな、つきあいたくないタイプだなと思えてしょうがなかった。


この種の思い込みの強さ、独りよがりがうまい方向に作用すると、少なくとも映画作品としては興味深いものとして仕上がってくる。とはいえ、こういう作り方で毎回行くと、観客がすぐ飽きるのは間違いなく、その点で、10年に一度撮る (本当にはそれほど間隔は開いてないが) と宣言しているタランティーノは、ある程度は考えているというか、戦略をわきまえている。そして、そういう風に、撮りたい時に撮れる映画作家というものがハリウッドにもそれほどいるわけじゃないことを考えると、たとえ業界内部からバカにされていても、新作を撮るたびにそれなりに話題になるタランティーノの一匹狼的製作態度は貴重なものに見える。


そのタランティーノ、なんと現在、「ロスト・イン・トランスレーション」で注目されたソフィア・コッポラと交際しているそうだ。コッポラと夫のスパイク・ジョーンズの中がうまくいってないという噂は聞いていたが、よりにもよってタランティーノとつき合っているとは。二人とも日本に興味があるようだし、もしかしたら趣味は似通っているのかもしれない。しかし、別れるなら今のうちだよと、是非コッポラに一言言ってあげたい気持ちは大いにある。


ところで「キル・ビル」上映前に、ハリウッド版リメイクの「Shall We Dance?」の予告編を初めて見た。リチャード・ギアとジェニファー・ロペス主演でリメイクの話が持ち上がっているという話は前々から聞いていたのだが、ハリウッドでは話だけ大々的にぶち上げていっこうに実現しないということがよくあるので、実際に製作に入ったという話を聞くまでは別に注意を払っていないのだが、既に公開間近だったか。8月公開を今から宣伝しているところを見ると、かなり力が入っている証拠で、期待してしまう。予告編だけで見ると、ギアは文句なし、ロペスは草刈民代の印象とはまったく異なるが、それはそれで悪くなさそうだった。なんてったってラテン系のダンスを躍らせれば、オリジナルより魅せてくれるだろう。


竹中直人がやっていた役はスタンリー・トゥッチがやっており、竹中とはカラーはちょっと違うと思うが、それなりに芸達者のトゥッチのことである、どういうふうに演じているか大いに興味をそそる。さらにスーザン・サランドンまでが出ていたが、彼女は誰の役をやっているんだろう。こうやって見ると、ハリウッドでリメイクすると、確かにいきなり製作ヴァリュウが上がるというか、画面がゴージャスになる。予告編だけ見ても、金のかけ方が違うというのがはっきりとわかる。「キル・ビル」、「ロスト・イン・トランスレーション」と日本を舞台にした映画が話題になったが、ホラーやアニメ映画以外でも、日本映画のリメイクも盛んだ。「座頭市」も今夏公開だそうで、日本映画もなかなか頑張っている。






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Kill Bill Vol. 2   キル・ビル Vol. 2  (2004年4月)

 
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