The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring

ロード・オブ・ザ・リング  (2001年12月)

「指輪物語」こと 「ロード・オブ・ザ・リング」は、1954年発表のJ. R. R. トールキン作の古典を、「乙女の祈り」のピーター・ジャクソンが映像化したものである。大部の原作を映像化するため、最初から原作同様3部作として構成され、来年のクリスマスに第2部、再来年のクリスマスに第3部が公開される。その第1部が、この「ザ・フェロウシップ・オブ・ザ・リング」だ。


今年の年末は、話題性としては抜群の「ハリー・ポッター」からこの「ロード・オブ・ザ・リング」と、ファンタジーとしては歴史に残りそうな作品が続けて公開された。同時多発テロの反動もあって、この手のいかにも王道を行くようなドラマの人気が復活しているため、「ハリー・ポッター」はいきなり興行記録を作ってしまったし、「ロード・オブ・ザ・リング」も今のところ出足は悪くない。「ハリー・ポッター」はどうしても演出のクリス・コロンバスに抵抗を感じるので結局見る気になれなかったが、ジャクソンの「乙女の祈り」は悪くなかったし、これほどのクラシックをどのように料理しているかは結構気になる。


「ロード・オブ・ザ・リング」 は冒頭、いきなりその物語の中心となる指輪がどのようにして作られ、どのような運命の変転を経てきたのかを述べるのだが、それだけで既に何千年もの時間が経ってしまう。その後、主人公のフロドが登場してからが物語の本題となるのだが、私はその時点で、既にはぐらかされたような気になってしまった。その、滅茶苦茶端折られた何千年もの話も結構面白そうなんだよ。原作は読んでないが、そっちの方もこういう展開なのか。


その後も、いかにもファンタジーらしく、旅に出た主人公の一行が、艱難辛苦にあいまみえながら、それを克服し、成長して行く様が描かれるわけだが、どうも、どれも全部どっかで見たような気にさせるのだ。多分、この種のファンタジーのそもそものオリジナルがこの「指輪物語」であるわけだから、今回その映像化を見て、どっかで見たことがあるもくそもないのだが、事実そう思ってしまうのだ。多分「指輪物語」からアイディアを得て製作された作品をこっちとしては先に見ているため、せっかく製作された本尊を見てもありがたみがないのである。


これは不幸なことである。製作者にとっても見る方にとっても。まあ、しかし、トールキンだってギリシア神話やローマ神話、その他もろもろの世界の伝記伝承からアイディアを得たことは間違いないから、必ずしも「指輪物語」が正真正銘この手のファンタジーのオリジナルとは言えないが、それでも、映画を見てる時のこの既視感や、話のどのポイントからでも入っていけるロール・プレイング・ゲームでもしてるような感覚は、周知のもの、という感じが常につきまとう。


この話は映画ではなく、TVシリーズにするべきであった。昨年、TVミニシリーズとして、やはり同様の古典となっているフランク・ハーバートの「デューン」が製作放送されたが、こちらも6時間に及ぶ大作であった。そして、そちらの方から受けた感触も、まったく同じものだった。つまり、どちらも原作がやたらと長い、大部の小説を6時間のミニシリーズか3時間の映画3本にまとめようと試みているのだが、どちらも、それでもやたらと原作を端折っているという印象は如何ともしがたい。6時間や9時間では、このくらいの圧倒的な量の原作はまとめられないのだ。


そのため、軸となるエピソードをそこかしこからピックアップしてきてそれを繋ぎ合わせることになる。この手の長い話を読んだことのある者なら理解してもらえるだろうが、こういう、延々に続く物語の醍醐味は、何といっても、長い話であるという、その事実にこそある。いつの間にやら話に没頭して、延々と話の終わらない、エンドレスの物語の世界に没入していくことこそが、この種の作品の最高の醍醐味であり、快感なのだ。滅茶苦茶長い話なのに、いつの間にやら読み終えそうになって、もうすぐ読み終えるという達成感や満足感と共に一抹の寂寥感を受けた記憶のあるものなら、私の言っている意味がわかるだろう。結局、その手の本は、そういう読者の欲求に答えるために、何度も書き継がれていくことになっている。


こういう話の映像化は、6時間や9時間では全然短い。最も向いている媒体は、映画ではなくTVシリーズの方にある。「デューン」も「ロード・オブ・ザ・リング」も、TVで毎週放送されるシリーズ化されたら、「スタートレック」同様、カルト・ファンがついたのは間違いないと思う。ただし、最先端のCG技術を要求する今回の映像化が、現在のTVでは採算がとれないだろうということもよくわかる。だから、いっそ思い切ってなるたけそういうスペシャル・イフェクツを使わないロウ・テクで行くか、さもなければあと10年待って、その種の特殊撮影がもっと安くでできるようになってから製作した方がよかったと思う。


また、それ以外に気になるのが、これは特に「ロード・オブ・ザ・リング」に限らないのだが、なぜ、この手の話の舞台って、必ず中世時代のような時と場所になるのか。最初に指輪が作られてから何千年も経つのに、彼らはテクノロジーを発展させることができない。いつまで経ってもコンピュータ1台作ることすらできないのに、どういうわけだか魔法は使えたりするのだ。とても不思議。ま、それがファンタジーのファンタジーたる所以と言われれば、それで納得するしかないが。しかしこういった理由付けでは、「フォース」みたいな超能力を導入しようとも、「スターウォーズ」の方がうまくやっている。


ただし、そういった気になる点以外では、今現在のスペシャル・イフェクツの最先端の技術を知るという点で、非常に面白かった。特に、小人という設定の主人公を、実際にも大きくはない俳優であるイーライジャ・ウッドやイアン・ホルムが演じているのだが、いくらなんでも彼らはあそこまで小さいわけではない。あれはいったいどうやって撮っているのであろうか。しかし、なぜだか巨人との戦闘シーンになると、いきなりレイ・ハリーハウゼンが「アルゴ探検隊の大冒険」でやって見せたコマ撮りみたいに動きがぎこちなくなってしまうのはなぜだ。あれはおかしかったっぞ。しかし 「アルゴ探検隊の大冒険」では、それが得難い手作りの味を出していたのに対し、今回は他の特撮が非常によくできているのにそこだけぎくしゃくしてしまい、マイナスの効果しか得ていない。なぜあのシーンだけはちゃんと撮れなかったんだろう。


その次に面白かったのが、滅多に見る機会のないニュージーランドの自然描写である。元々監督のジャクソンはニュージーランド人で、撮影はニュージーランドでほぼ1年にもわたって行われた。そのため作品内にニュージーランドの四季折々の大自然がとらえられるのだが、アメリカじゃないし、ヨーロッパとも違うし、お隣りのオーストラリアともちと違うニュージーランドの大自然の描写は、私には非常に新鮮に映った。


結局「ロード・オブ・ザ・リング」は、原作の持つ面白さを全部濃縮して詰め込むには短すぎるし、また、逆に普通の映画の尺度から見ると、今度は3時間は長すぎるという作品になってしまった。この映画が長すぎたというのは、私の隣りで寝ていた女房、その左隣りでお喋りや貧乏揺すりばかりしていたガキ、私の右隣りで映画を見ることよりもいちゃつくことの方に余念がなかったカップルとかが証明している。3時間の話に一本の軸が通っているというよりも、幾つかのまったく異なる話が共存しているため、時々見る方の集中力が途切れるのだ。そういう構成で、途中休みもなく、3時間ぶっ通しはきつい。飽きずに見れたという点なら、正直言って「ロード・オブ・ザ・リング」より、まだ「パール・ハーバー」の方が楽しめて見れた。来年クリスマスに私が「ロード・オブ・ザ・リング」第2弾を見るという可能性はあまりありそうもない。







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