Kill Bill: Volume 1


キル・ビル: ヴォリューム1  (2003年10月)

結婚式場で半死半生の目に合わされた新婦になるはずのブラック・マンバ (ウマ・サーマン) は昏睡状態に陥り、4年後に病院のベッドで目を覚ます。その瞬間から、彼女の復讐の旅が始まる。ブラック・マンバは沖縄に飛び、服部半蔵 (千葉真一) の手になる日本刀を手に入れる。そして今ではやくざの女親分として収まっている (ルーシー・リュー)、そしてコッパーヘッド (ヴィヴィカ・A・フォックス) を倒し、着々と首領のビルに迫っていくのだった‥‥


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クエンティン・タランティーノが日本で監督第4作を撮っているという話は早くから伝わっていた。前作の「ジャッキー・ブラウン」がポシャった時、俺は (10年に1作しか作品を撮らない) テレンス・マリックになると言っていたが、結局それから6年のブランクで次の作品が登場した。


正直言うと、私はあまりタランティーノを買っていない。結局、彼はデビュー作の「レザボア・ドッグス」を超える作品を撮ってはいないと思うし、これからも超えられないだろうという気がする。「ドッグス」は、タランティーノのオタク心がいい意味ではまった快作になったと思うが、結構誉められてた「パルプ・フィクション」は、それを薄めて水増ししただけとしか私には感じられなかった。ああいう作品が好きな者も多いだろうというのはわかるが、私にはアピールしない。


それで今回、何をとち狂ったか2時間にまとめきれなくて、「キル・ビル」を前後編に分けて公開するというのが発表になった時、はっきり言って、私はその時点でほとんど「キル・ビル」に対する興味をなくした。多分、もう見ないだろうと思っていた。どうせまた自分のエゴを抑えきれなくてどこも切れなくなっただけなんだろう、そんな自己満足になんかつきあってらんないと思っていた。


しかし、最近になってばんばんかかり始めたTVコマーシャルを見ると、やはり、それなりに面白そうだなと思えるような作品にはなっているようだ。それで、とにかく第一部だけは見て、それでがっかりするようなことがあったらもう第二部は見ないということにして、劇場に足を運んだ。


そしたら、ここまで突っ込みどころ満載の映画なんて最近なかった作品として仕上がっていた。まったくリアリティは無視されており、というか、タランティーノ流の話術の世界でのリアリティが作品に横溢している。オタク心爆発で、これでもかというくらい仁侠映画と忍者映画、時代劇、カンフー映画、アニメからの影響や引用が至るところで炸裂する。とにかく常軌を逸した、タランティーノだけが作ることのできる世界で、至るところで場内から失笑が漏れるのだが、ここまでやられると、それはそれなりに評価しないわけにはいかないという気になる。しかしこれは見る者を選ぶだろう。


いかにもタランティーノ的な血飛沫のみならず、首は飛ぶわ手足は切り落とされるわ、セックス描写よりもヴァイオレンス描写の方が厳しいアメリカにおいて、この映画が17歳未満入場禁止のNC-17レイティングでなく、一応成人の同伴があれば未成年でも見られるRレイティングでよく収まったなという感じだ。配給のミラマックスは強力に根回ししたに違いない。


それにしても突っ込みどころだが、だいたい、4年間の昏睡状態から覚めたブラック・マンバは、金もないはずなのにいったいどこでどうやって生活しているのか。あれだけ派手なピックアップに乗っていて、その持ち主を殺しているというのに、警察が追ってこないわけがあるまい。どこでパスポートを手に入れたから日本に飛べるのか。これだけセキュリティが厳しくなって、空港ではプラスティックのハサミすら機内に持ち込めず取り上げられるというのに、座席のそばに日本刀を置いているブラック・マンバはいったいどういう伝手を使って機内に持ち込んだのか。


その日本刀を、沖縄で千葉真一が作っているという設定も、かなり無理がある。わざわざ沖縄に設定しているなら、飲み屋では酒じゃなくて泡盛を勧めろ。しかもそこで千葉が作ってサーマンに渡した日本刀にはシーサーの銘が入ってたりして、いや、もう、失笑するのを抑えられない。この映画が日本人に最もアピールするのは間違いないところだが、アメリカ人の目から見ても苦笑失笑を禁じえない箇所が至る所にあり、とにかく上映中、ずっとくすくす笑いが場内から途切れない。最後、リューとサーマンの一騎打ちで、それまで季節感などまるでなかったくせに、リューが障子をさっと引くと、そこは一面の雪世界という強引さには、ほとんど爆笑してしまった。


仁侠/時代劇のクライマックスの常套であり、どうしても雪の上に赤い血飛沫を飛ばしたかったようだ。その直後の最後のクレジット部分では、なんと梶芽衣子の「恨み節」が流れる始末で、私が見ているのは「女囚さそり」か「修羅雪姫」かはたまた「仁義なき戦い」かと思ってしまう。サーマンとリューの下手くそな日本語も抱腹絶倒もので、リューなんて、今時の若い日本人がは聞いたこともなく、もしかしたら理解できそうもないくらい古くさい言い回しをする。いったい誰が訳したことやら。いや、笑えるけどね。


しかし、ここまで堂々と開き直ってやられると、感心してしまわないこともない。だいたい、元々ワイヤー・アクションにはワイヤー・アクションとしてのリアリティがあるのであり、ああいうふうに人は跳べないとか動けないとか言ってしまってはそこですべてが終わってしまう。だからそれはそれとして受け入れないといけないのだが、その伝でタランティーノ流美意識と同化できる者なら、「キル・ビル」はほとんど感涙ものだろう。


女房と一緒に映画を見て帰ってきてから、どうする、来年のヴォリューム2、見る気ある? と訊いたら、最初はタランティーノ作品にまったく乗り気でなかったくせに、もう、ヴォリューム1を見たから2も見る、じゃないと消化によくないと、2も見る気になっていた。私は堪能、というか、充分げっぷするほど見たという気がしたから、別にもういいかと思っていたのだが、いったん見てしまうと、確かに後が気になるというのはあるかもしれない。


ところで「キル・ビル」は配給のミラマックスから押されており、宣伝は強力、一応話題性も抜群、みたいな印象を受けていたのだが、いざ劇場に見に行ってみると、初日だというのにがらがらだった。やはりあれだけオタク心を爆発させていると、見る者を選んでいるようで、はっきり言って、劇場にいる者の上限が私たちくらいの年代で、あとは若い者がちらほらという程度だった。


これじゃ週末の興行成績も知れたもんだな、もしかしたら来年ヴォリューム2は公開されず、ヴィデオ発売になるか、もうしばらくして1と2を併せて縮めた新ヴァージョンが公開されるかもしれない。だとしたら頭に来るなあと思っていたのだが、それでも最終的には週末2,200万ドルの興行成績を上げて、全公開映画でトップに立っていた。我々が見たのは週末の日中だったので、「キル・ビル」がアピールする若い層は日が暮れてから夜の上映を楽しんだか、あるいは私たちの住む郊外ではなく、マンハッタンの都会などでは人が入ってたのかもしれない。来週もこの勢いを維持できるなら、ヴォリューム2は無事公開されるだろう。


それにしても先月、やはり東京を舞台とした「ロスト・イン・トランスレーション」が公開され、今月は「キル・ビル」、そして今月いっぱい、リンカーン・センターのウォルター・リード・シアターでは小津安二郎回顧特集が開催されており、ニューヨークにいると、なにやらいきなり東京が世界の映画界の中心になってしまったような気がする。私にはほとんど関係ないが、少しばかりなんとなく鼻が高いような気がするのであった。







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