Hereafter


ヒアアフター  (2010年11月)

パリのTV局で舌鋒鋭い番組ホストとして働くマリー (セシル・ドゥ・フランス) は、愛人の番組プロデューサーとヴァカンスに訪れていたタイで津波に巻き込まれ、臨死体験をする。一瞬ではあるが死を体験した彼女は、仕事に戻ってもかつてのように物事を受け止められなくなっていた。ロンドンでアル中の母と暮らす双子の少年マーカスとジェイソンは、すべてにおいてツーカーで仲がよかったが、不良に絡まれたジェイソンは逃げる途中、配送トラックにはねられて死亡する。サンフランシスコに住むジョージ (マット・デイモン) は幼い頃の大病の影響で死者とコミュニケイトできるという能力を得、一時サイキックとして生計を立てていたこともあったが、普通でないそういう生活に嫌気を差し、今では港湾労働者として働いていた。死が身近なところにいた、世界の異なった場所にいる3人が、何らかの理由によって交錯する‥‥


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クリント・イーストウッドの新作は、死後の世界がテーマだ。あるいは、死そのもの、もしくは死に対する姿勢がテーマと言えるかもしれない。タイトルからして「ヒアアフター」、死後の世界なのだ。いずれにしても、死者と対話できる男が主人公と聞いて、ついにイーストウッドが死をテーマにしたかという思いにとらわれる。死後の世界というある意味非常に胡散臭いテーマに手を出したイーストウッドに対し、大丈夫かという不安と、イーストウッドがどういう視点で作品を描いたのか、なにがなんでも見てみたいという作品に対する期待が交錯する。


思えば「父親たちの星条旗 (Flags of Our Fathers)」や、特に「硫黄島からの手紙 (Letters from Iwo Jima)」では、これでもかという死屍累々たる死者の山を見せつけられた。一昨年の「グラン・トリノ (Gran Torino)」では、主人公を演じたイーストウッド自身が最後、死んでしまう。イーストウッド作品と死は、結構身近だ。本人も80歳に達し、演出の境地こそ円熟だが、体力の衰えや死というものを考えることもあろう。そろそろ50に手が届く私からして、昔ほど体力がないことを痛感する日々なのだ。近年、父母の歳の知人や親戚は次々と鬼籍に入っている。明日は我が身かもと思う。イーストウッドが、いまだに矍鑠として新作を世に送り続けているといえども、まるっきり死を考えたことがないというわけはないだろう。


とはいえ、死をテーマにした新作が、死だけではなく死後の世界も描き、死者と対話することのできる男を主人公とするというのは、いささか気になる。まさかいくらなんでも主人公に扮するマット・デイモンが超能力を使って死者と対話し、悪をやっつけたりするようなとんでもSFみたいなのを作ったんじゃないだろうな。ありえないとは思うが、しかし、いつも我々の期待や予想を軽い身のこなしで裏切り続けてきたイーストウッドのことだ、本気で何を作ろうと考えているのかなんて、一介のファンには到底想像できない。どんな可能性だろうと、イーストウッドだと無下に否定できない。


「ヒアアフター」は、ヴァカンス先のタイで津波に巻き込まれ、九死に一生を得たフランス人女性TVジャーナリストのマリーの描写から始まる。津波のシーンは予告編でも大々的に使われていたので、あることは知っていたが、大きなシーンだからこれはてっきりクライマックスだと思っていたら、逆に導入部だった。これに巻き込まれて死にかけ、臨死体験をして死後の世界を体感したマリーにとって、死生観は津波前と後ではまるっきり逆転し、いたずらにスキャンダラスなテーマを追う今の仕事は、マリーにとって人生を賭けるものではなくなっていた。


ロンドンでは酒浸りの母を健気に助けながら生きる双子の少年ジェイソンとマーカスがいた。定期的にアパートを訪れる民生委員は、これ以上母の身持ちが悪くなるようなら矯正施設に収容し、ジェイソンとマーカスは他の所に預けるつもりでいた。ある時、街の不良に絡まれたジェイソンは、走って逃げる途中、小型トラックにはねられて死亡する。半身をなくし、母とも引き離されて暮らすようになったマーカスは自分の世界に引きこもり、ただただまたジェイソンと会いたいとだけ切望する。マーカスはネットを検索し、死者と対話できるという霊媒、ジョージを見つける。


そのジョージは幼い頃、大病をして何度も死線を彷徨った挙げ句、死者が見えるという体質になっていた。一時霊媒としてそれなりに知られ、生活にも困ってはいなかったが、死者に囲まれたまったく普通ではない生活を続けていくのが嫌で廃業し、今では港湾労働者として一人でひっそりと暮らしていた。生活を変えようと料理教室に通い出し、そこで出会った女性メラニー (ブライス・ダラス・ハワード) とも淡い感情が芽生える。しかし仕事はクビになり、兄のビリー (ジェイ・モーア) は、二人でまた霊媒業を立ち上げようと持ちかける‥‥


話は、マリー、マーカス、ジョージの3人の主要登場人物を交互に描く。当然最後は3人の人生が交錯することになる。それはともかく、最大のポイントは、イーストウッドが本当に堂々と死後の世界を描いているということにある。ただし、それは本人が死後の世界を信じているということを意味しない。イーストウッドは死後の世界を描く映画という媒体を信じているのであって、それを現実足らしめているのは、本人がこれまでに培った経験、キャリアに拠っている。死後の世界が本当にあるかどうかはわからない。しかしこれまでに経験してきた映画、演技、演出は微塵も揺るがない。だから死後の世界もこれまでと同じように撮るだけだという、現実だろうが死後の世界だろうが関係なく、淡々と、本当にまったくこれまでと同じように同じスタイルで撮っているのだ。


思えば、どんな作品、テーマ、ストーリーであろうと、まったく同じ姿勢で作品を撮り続けることができるというのは、稀有なことではなかろうか。そこには自負も矜持もなければ気負いも諦観も悔恨もない。死後の世界が胡散臭いというのは、我々が先入観で死後の世界を胡散臭いと感じているからそうなのであって、もし本当に死者と対話できるという者がいるなら、信じる信じないはともかく、少なくともその人の言うことに耳を傾けることはできる。別にそれは悪いことではあるまい。


イーストウッドは、ほとんどそういう気楽とも言うべき態度で、そしていつも通りにカメラを回したかのようだ。こんなにナチュラルな肩肘張らない態度で死と、死者と対話できるという者と接することができ、いつも通りのまったく変わらないスタイルで作品を撮ることができるというのは、もしかしたらとんでもなくすごいことを、ごく普通にやっているのではないかという思いにとらわれる。信じているのでもなければ突き放しているのでもない。いわば包容しているのだ。イーストウッドはまた我々の予想を軽く裏切って、一人だけ別次元で作品を撮っている。今、イーストウッドと同じ次元で作品を撮れる演出家はこの世にいない。








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