Garden State   ガーデン・ステイト  (2004年9月)

アンドリュウ・ラージマン (ザック・ブラフ) はLAで売れない役者として細々と暮らしていたが、母が死亡した知らせを受け、故郷のニュージャージーに帰ってくる。アンドリュウは両親との折り合いが悪く、実家に帰ってくるのは約10年ぶりのことだった。アンドリュウは葬儀で昔仲間のマーク (ピーター・サースガード) と出会い、その他の仲間たちと旧交を暖めるが、既に住んでいる世界が違うという思いは如何ともしがたい。アンドリュウは父の薦めで赴いた医者の待合室でサム (ナタリー・ポートマン) と知り合いになり、二人は一緒に出歩くようになる‥‥


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「ガーデン・ステイト」はNBCのシットコム「スクラブス (Scrubs)」のスター、ザック・ブラフが監督、主演のオフ・ビート・タッチのコメディ・ドラマだ。今年のサンダンス映画祭にも出品され、かなり好評だったという噂は聞いていたので、見たいと思っていた。インディ映画の殿堂、サンダンス映画祭では、ジャッジが選出した当たり障りのない審査員賞より、観客が噂にする作品の方が圧倒的に面白いことは、よく知られている事実だ。そのサンダンスで、今年最も話題になった作品の一つが、この「ガーデン・ステイト」なのだ。


作品タイトルの「ガーデン・ステイト」とは、ニュージャージー州の異称/愛称である。考えれば一昨年、インディ映画の雄ジョン・セイルズの同様のタイトルがついた「サンシャイン・ステイト」というコメディ・ドラマもあり、こちらはフロリダを意味している。さらに、こちらは州名ではないが、ずばり地名を指し、その地方特有のユーモア感覚を活写した、この種の作品では代表的存在である、コーエン兄弟の「ファーゴ」という作品もある。ある地方の特有のセンシティヴィティやユーモア感覚等を描こうとすると、フットワークの軽いインディ映画の方が向いているのだろう。「ガーデン・ステイト」の場合、ブラフは実際にニュージャージー出身であり、要するにこの作品は自身の体験が大きくものを言っているに違いない。


とはいえ、世界都市マイアミやディズニー・ワールド、ユニヴァーサル・ステュディオ等を有し、たぶん世界中の誰でもが知っている南国フロリダや、あまりにも誰も知らないためにかえって興味を引かれるファーゴに較べ、なんにしても中途半端なニュージャージーが果たして人々にアピールするだろうか。普通の人がニュージャージーというと知っているのは、ニューヨークの隣りの州であるということくらいだろう。ニュージャージーという場所に、それ以上の何か特別なものがあるのか。実際、そのニュージャージーの隣りのニューヨークに住む私ですら、ニュージャージーの都市や代表的な何かというと何があったっけ、と、ふと考え込んでしまう。


事実ニュージャージーは、ニューヨークの隣りの州であることで、知名度的にはだいぶ損をしていると言える。ともすると人々は、ニュージャージーをニューヨークの一部か、属州みたいな感じでとらえがちなのだ。例えばプロ・アメリカン・フットボールNFLのジェッツとジャイアンツは、本拠スタジアムがニュージャージーにある。ところがこの両チームとも、ニュージャージー・ジェッツ、ニュージャージー・ジャイアンツではなく、ニューヨーク・ジェッツ、ニューヨーク・ジャイアンツなのだ。看板に偽りありとはこのことだ。ニュージャージーの国際空港、ニューワーク空港に降りて、ニューヨークではなく、ニュージャージー入りする観光客はほとんどいないだろう。


私にとってはニュージャージーというのは、ボスことブルース・スプリングスティーンを生んだ州であるということに尽きる。とはいえスプリングスティーンの歌が喚起するのは、アメリカ南部か内陸部の乾いたイメージであって、なんか、ニュージャージーだとイメージがそぐわない。私はスプリングスティーンがニュージャージーの出身だと初めて知った時、非常な違和感を覚えたものだ。


そしてスプリングスティーンのファンより若い年代の者にとっては、ニュージャージーと聞いて真っ先に思いつくのは、たぶん、HBOの人気番組「ソプラノズ」の舞台であるということだろう。あ、そうだ、昨年公開の「ステーション・エージェント (The Station Agent)」というのもあった。この作品の場合、小人の青年が主人公のオフ・ビートのコメディで、やはりニュージャージーが舞台となると、どうしても一癖ある話になってしまう。「ガーデン・ステイト」でも、そういう、いつもニューヨークという傘に隠れがちなニュージャージーという場所を前面に押し出すところに、既にちょっとひねったこの映画の性格が窺える。


実際、この映画を特徴づけているのは、全編にわたって差し挟まれるオフ・ビートのギャグにある。主人公のアンドリュウにとってはあまり面白くない状態、はかばかしくない状態が続き、観客は、そういう窮地に陥るアンドリュウを笑う。アンドリュウはほとんど表情の起伏を見せず、ずっとぶすっとしているのだが、しかしこの作品、だからこそというか、かなり笑える。ブラフは「スクラブス」の方がもうちょっと表情に変化があるが、それでもやはりギャグはメイン・ストリームのシットコムに較べると、捻った、爆笑というのではなく、にやりとさせるタイプの笑いが多い。元々そういう性格なのだろう。


「ガーデン・ステイト」では、アンドリュウはわりと色々大変な目に遭ったりしているのだが、あまり怒らないし笑わない。母が死んでもそんなに悲しい素振りを見せるわけでもなく、友人のいたずらの的になっても怒ってみせるわけでもない。ただ淡々とそういう状況を受け入れる。ティーンエイジャーの時は怒りっぽくて、そういう怒りを制御するために精神科医に通ったりもしていたみたいだから、アンドリュウが生来そういう性格ではないのは明らかだ。現在のように表情が乏しく見えるのは、アンドリュウが編み出した、社会とうまくやっていくためのつきあい方なのだ。


主人公が生き方が下手で、彼の周りの世界とのつきあいのズレを面白おかしく描くことでコメディとして設立していた作品は、これまでも山のようにあった。最近私はあまりコメディは見ないのだが、それでも近いところでは、「エターナル・サンシャイン・オブ・ザ・スポットレス・マインド」も、この範疇に入れて差し支えないだろう。もちろんジム・キャリーとザック・ブラフという、二人ともコメディ俳優といえどもまったくタイプが違う役者が演じ、しかも「スポットレス・マインド」はSF仕立てであったが、社会と相容れない主人公と、その目を覚まさせてくれる恋人という構図は共通している。しかもその恋人が閉じこもりがちな主人公と社会とを媒介するためのフリー・スピリットを所有しているというところまでそっくりだ。それにしても最近は、男がうちに閉じこもって女性がオープン・マインドで社会と接しているというのが定番のようだ。


「ガーデン・ステイト」で目につく特徴の一つとして、親、特に母親の子供たちに対する放任主義がある。あるいは子供に対する信頼と言い換えてもいいかもしれない。マークの母親は、息子がドラッグ・パーティを開いていることを知りながらも息子に対する愛情は変わらないし、サムの母親も、サムに対する信頼は絶大のように見える。だから娘の帰りが夜遅くなったり無断外泊 (だと思うが) したりしても、別に不満を述べるわけではない。


一方、アンドリュウの父は、たとえ医者といえども自分の息子が何を考えているかはわからないし、どう付き合えばいいかもわからない。マークのところは父はいないし、サムのところもいなかったようだ。結局、まともに子育てできるのは母親の方ばかりなのだ (アンドリュウの母はそうでもなかったようだが。) そして男の主人公はいつも恋人に振り回されるか、彼女なくしては社会とまともに付き合えない。男が弱い性になりつつあるのか女性が強い性になりつつあるのか。それとも社会の本来あるべき姿が顕現しつつあると考えるべきなのか。 






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