ある朝、ジョエル (ジム・キャリー) は会社を休んで赴いたロング・アイランドの東端モントークの波打ち際で、クレメンタイン (ケイト・ウィンスレット) という女の子と知り合う。しかし、ある日クレメンタインの働く職場に出向いたジョエルは、クレメンタインから初めてジョエルを見るかのような冷たい反応を示されて、ショックを受ける。実はクレメンタインは今の生活を変えたくて、過去のことを忘れるトリートメントを受けていたのだ。自棄になったジョエルは自分もクレメンタインを忘れるために、同様のトリートメントを受ける決心をするが‥‥


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自分を忘れるトリートメントを受けた恋人に対する腹いせ? に、自分も恋人のことを忘れようと決心する男にジム・キャリーが扮するコメディ? 脚本は現在、ハリウッドで最も注目を集めている「アダプテーション」のチャーリー・カウフマン。「アダプテーション」ではカウフマンは自分自身をモデルにし、しかもその自分自身を双子として造型、さらにはニコラス・ケイジがカウフマンを演じる作品に自分自身も顔を出すという摩訶不思議な状況を設定していた。それ以外でも「マルコヴィッチの穴」や「ヒューマンネイチュア」等、とにかく一癖も二癖もある脚本には定評がある。


それを映像化するのは、「ヒューマンネイチュア」の、と言うよりは、ビョークのミュージック・ヴィデオの監督として知られているミシェル・ゴンドリーで、こちらも様々なギミックを多用した癖のある映像作りでは定評がある。


この二人がタッグを組んだおかげで、当然のことながらでき上がった作品は、やはり摩訶不思議な印象を残す、SFだかコメディだか恋愛ドラマだか、なんとも定義づけの難しい作品になった。第一、いったいいつの間に、記憶の一部だけを抹消するという機械が発明されたのか。これはSFじゃないんだろう? しかも実地にそれを患者に使用している医者がおり、しかも見ていると、その利用はどう見てももぐり、あるいはその筋から許可をとっているとは思えない。


クレメンタインがいきなりジョエルと赤の他人の素振りを見せ始めると、納得いかないジョエルに、匿名の手紙が届いて (その手紙は実はその医者の元から送られている)、ことの次第を仄めかすのだ。半信半疑でそのクリニックに乗り込んだジョエルは、自分もクレメンタインと同じトリートメントを受ける決心をする。しかしその使用には、クリニックの従業員が夜中にこっそり人目を忍んで患者の元に行き、寝ている時にセットしなければならないという、どうにも胡散臭い話なのだ。当然それが何事もなく進むわけはなく、どんどんジョエル相手のトリートメントは思いもがけない事態に陥っていく。


このSF的設定を、ビョークのSF的ミュージック・ヴィデオで知られるゴンドリーが、楽しそうに演出している。そこかしこに出てくる、遠近法や時制を無視したり、スプリット・スクリーンを多用したギミックは、ともすればやり過ぎと見えないこともなく、わりとストーリーを理解するのに頭の痛い混乱を持ち込んでもいる。


特に印象深いのが、時間を遡ったりするために、今そこにいる人間が実はいないはずの人間であり、そのためその人物の顔はのっぺらぼうになってしまっている事態だとか、ジョエルとクレメンタインが二人手に手をとってグランド・セントラル・ステーションを走っている時に、周りの人間が消えていくというシチュエイションで、昨週「ドーン・オブ・ザ・デッド」を見たばかりの私は、非常にホラーくさい印象を受けた。結構怖いと言ってしまってもいいのではないか。実際、知らないうちに記憶をなくしているという設定は、ホラーSFとしてなかなか使える。


マーク・ラファロ、キュースティン・ダンスト、イーライジャ・ウッド、ジェイン・アダムス、トム・ウィルキンソン等の曲者が脇を固めているのだが、そのほとんどがわりとSF作品に縁が深いのも、こういう設定とは無関係には見えない。「ロード・オブ・ザ・リングス」でホビットの主人公を演じたイーライジャ・ウッドが、まさか普通の人間を演じられるとも思えないし、「スパイダーマン」の彼女のキュースティン・ダンストも然り。一見してはSF作品とは無関係に見えるウィルキンソンも、実はHBOのTV映画「ノーマル (Normal)」で、なんと自分は本当は女性だと言い出して性転換手術を受け、女性になってしまうという常軌を逸した役を演じている。この分だとラファロがSF作品に出るのも、そう遠い未来の話ではないだろう。


もちろん主人公の二人、ジョエルを演じるキャリーとクレメンタインを演じるウィンスレットもSFとは無縁ではない。キャリーは昨年、「ブルース・オールマイティ」でほとんど神様になっちまったし、ウィンスレットはそもそものデビュー作が、誰あろう「ロード・オブ・ザ・リングス」のピーター・ジャクソンが演出した「乙女の祈り」で、パラレル・ワールドに逃避する年頃の少女を演じていた。


とはいえそういう人々がそういう設定を演じても、それが観客に受け入れられるかはまた別の話で、この作品、これまでのカウフマン作品同様 (ゴンドリー作品ではなくカウフマン作品として紹介される場合が多いのだ)、そのオリジナリティを高く評価する声は多いが、作品そのものを評価するかどうかとなると、話はまた違ってくる。特にそのSF的な設定を堂々と話の軸にしているマンガチックなところが、見る人を選んでいるようだ。


しかしいったんその設定を受け入れると、「エターナル・サンシャイン」は、恋愛ものとしては実に胸キュンの作品としてでき上がっている。記憶を消され、元に戻り、やり直し、くり返し、失敗して、またやり直すというような、メビウスの輪みたいな堂々めぐりのループになっているところで、結局主人公の二人は、映画が終わった後もまた同じ時点に戻って同じことを繰り返すんじゃないかという、心は苦しいけれども、それでも人生の最も重要な瞬間を生きている時間が何度でも繰り返される予感と緊張と興奮と苦悩と挫折と眩暈に満ちている。


ところでこの映画、キャリーが乗る列車がマンハッタンとロング・アイランドを結ぶLIRRであるところを見ると、私から見るとご当地映画なんだが、映画の中ではモントークというロング・アイランドの東端にある場所を除けば、その他は特定されていない。もちろんキャリーたちの住む場所の地名はあるのだが、そんな場所聞いたこともない。一方、マンハッタンがスクリーンに映るのは、誰でもわかるグランド・セントラル・ステーションだけで、しかもせっかくマンハッタンでロケしているのに、駅の外に出て、絵になるマンハッタンの街頭を映すことはないという、非常にもったいない撮影の仕方をしている。その上結局、ジョエルがなんの仕事をしているかも最後までわからないままだ。要するに作り手の意識では、あるいは主人公の二人には、外の世界は存在しないも同じであるわけなんだろう。それにしてはクレメンタインの職場は出てきたわけだが。ジョエルは冒頭でいきなり仕事休んじゃうし、その後はクレメンタインと一緒にいるのに忙しい。いったい何をして生計を立てていたんだろう。






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Eternal Sunshine of the Spotless Mind   

エターナル・サンシャイン・オブ・ザ・スポットレス・マインド  (2004年3月)

 
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