Batman Begins   バットマン・ビギンズ  (2005年6月)

大富豪の一人息子ブルース・ウェインは、幼少の時枯れ井戸に落ちてこうもりに襲われたことで、その恐怖がトラウマとなってしまっていた。ある日、父と母と一緒にオペラを見に行ったブルースは、舞台演出でこうもりを想起させられパニックに陥り、途中退場した挙げ句、父と母は強盗に襲われ命を落とす。それ以来人生の意義に疑問を感じ、世界を放浪の旅に出たブルースだったが、中国の牢獄の中で彼の人生を変えることになる男デュカルド (リーアム・ニーソン) に出会う‥‥


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ティム・バートンの「バットマン」以来過去15年間に何度も製作され、最後の方はさすがに人も飽きたと見えて最初ほどの観客を動員できなくなり、これで当分はシリーズも打ち止めと思われた「バットマン」が、また帰ってきた。この背景には、「X-メン」「スパイダーマン」が記録破りの興行成績を獲得するなど、ジャンルとしてのヒーローものがまだ廃れていないという認識があるのは当然だろう。それに、アメリカのこの種の話ではただ一人、ネクラで悲劇的な生い立ちを持つバットマンが、演出家や製作者の想像力を刺激してきたことが挙げられる。バートンがバットマンに魅せられた理由も、まさにその点にこそあった。


一方「スパイダーマン」の場合は、主人公が実は貧乏な苦学生で、庶民的な性格を持たせることによって、観客により近しい印象を与えようと骨折っている。スパイダーマンは、スーパーヒーローのくせに金がないため栄養不良で、衣装も自分で縫わざるを得ず、そのため自分がなんのために悪と戦っているのかと、これまでのスーパーヒーローなら、あまりにも自明のことでまず考えもしなかったことに頭を悩ませる始末だった。その他にも普通なら素性が謎に包まれたままのはずなのに自分から公衆の面前でマスクを剥いだりするなど、はっきり言ってその言動はスーパーヒーローらしからぬところが多かった。


これが「バットマン」だと、どちらかと言うと、「スパイダーマン」よりは一般的に人々が考えている意味でのスーパーヒーローに近い。いったいどこの誰だか一般人には正体が知れない謎の男で、その実体は本人でもいったいいくら財産があるのか知れないくらいの超のつく大金持ちで、金に糸目をつけずに製作した最新テクノロジーを駆使した武器を持ち、コスチュームも何着も用意、人前でマスクを取ることなぞ一時も考えたことはなく、鍛えられた身体、悪に立ち向かう強靱な意志など、人々がスーパーヒーローに求めているものを体現している。


たった一つバットマンが他のスーパーヒーローと較べ一般的でないのが、その生い立ちから来るやたらと内省的な態度で、時としてマイナス志向にすら感じられるそういう性向は、いつも率先して悪に立ち向かっていなければならないスーパーヒーローとしては、ほとんど致命的な欠陥とも思える。そしてむろん、そこにこそバットマンの面白さがある。


そのことをはっきりと示したのが、バートン版「バットマン」にほかならない。特にシリーズ2作目となった「バットマン・リターンズ」は、デニー・デヴィート演じる背中に悲哀を背負った悪漢のペンギンが醸し出す哀愁のために、できとして最初の「バットマン」を超えたかどうかはともかく、見る者に与える印象の強さとしてはシリーズ随一のものになった。しかしバートンが去って監督がジョエル・シューマッカーに代わってからは、作品の規模や特撮、アクション・シーンはともかく、バットマンというスーパーヒーローが持っていたキャラクターの印象は大きく薄まってしまった。


特に「バットマン&ロビン」でジョージ・クルーニーが演じたバットマンは、「ER」の正義漢を引きずりすぎて、本人の魅力はともかく、負のスーパーヒーロー、バットマンとしては、マイケル・キートン、ヴァル・キルマー、クルーニーと続いたバットマン・アクターの中では、残念ながら最も印象がちぐはぐだった。結局「バットマン」シリーズは、昨年の「キャットウーマン」を計算に入れなければ4本製作されたが、段々尻すぼみとなり、私は、当分は続編が製作される見込みはないだろうと思っていた。確かワーナー・ブラザーズも、「バットマン&ロビン」が特に芳しい興行成績を上げることができなかった後、当分は「バットマン」は製作しないと言っていたはずだ。


たぶん、その禁が解けたという判断から製作された今回の「ビギンズ」が、「バットマン」最大の特色であり魅力でもある内省的、ネクラな面を前面に押し出したのは、それこそが「バットマン」が人気があった所以であるということをはっきりと認識した結果だろう。「ビギンズ」ではどちらかと言うと負のヒーローであるバットマンの特質を描き込むことで、「スパイダーマン」とは異なった次元で観客にアピールするスーパーヒーローの構築を狙っている。そして実際の話、その狙いはずばり読み通りに当たったと言える。負のスーパーヒーローとハリウッド特撮が効果的に結びついて、「バットマン」は「スパイダーマン」に続き、ヒーローものに新しい可能性をもたらした。


少なくとも日本のヒーローものにおいては、主人公はほぼ必ず人格的な欠点/欠陥を有していた。元々日本人のそういう判官びいき的な性向もあるだろうし、「タイガー・マスク」や「巨人の星」、特に手塚治虫や石森章太郎の描いたマンガの多くがその傾向に拍車をかけたと私は思っているが、「バットマン」はそういう特質を日本的な湿り気とは無縁な世界で構築している。つまり、バットマンことブルース・ウエインは、日本のヒーロー同様悩むことは悩むが、さすが肉食民族、その悩み方も力強かったのである。


そのため、内省的、根暗、やや陰湿というスーパーヒーローにおいてはほとんどマイナスの要素を抱え込んだバットマンが、世界を股にかけてあくまでも力強く悩んだ結果、なぜだかどこかでこれらのマイナス要素が掛け合わされることで逆にプラスの魅力として顕現することになった。つまり、なんでも徹底的に極めると、それはそれですごいということになる。スパイダーマンも実生活ではオタク青年だったが、バットマンもその本質はスパイダーマンに勝るとも劣らない筋金入りのオタク根性を持っている。


それでもバットマンがスパイダーマンやスーパーマンと本質的に異なるのは、バットマンは生身の人間であるということが挙げられる。遠い星の生まれであり、本当は地球人ではないスーパーマン、スパイダーの血が入ったことで微妙に変態しているスパイダーマンと異なり、バットマンは基本的に自らの身体を鍛え上げてスーパーヒーローとなったのであり、最新テクノロジーの武器で武装してはいても、実際にスーパーマンのように空を飛べるわけではなく、スパイダーマンのような超人的な運動能力を持っているわけでもない。バット (こうもり) とは名ばかりで、こうもりのように夜目が利いたり空を飛べたり吸血攻撃ができるのではなく、実はそのこうもりが怖くてたまらないから逆にその名を頂戴したというショック療法命名がバットマンなのだ。


「バットマン」にはこういう、真面目に考えるとほとんど情けないアンチ・ヒーロー的な設定が横溢している。しかし、こういう情けなさをわざと目に見えるところに置くことで観客の同情を買い、興味を惹き、ヒーローと自分を同一視させた「スパイダーマン」のような方法はとらずに、「ビギンズ」はもっと大きな視点から眺め、話を徹底的に大きくすることで、いつの間にやらやはり観客を味方につけるようになっている。特に話の構造としてはバートン版「バットマン」よりも緻密で隙がなくなった今回のクリストファー・ノーラン版の「バットマン」は、バートン版よりもっと多くの人々にアピールするだろうと思う。


実際、「ビギンズ」は評もかなりよく、それで普段はこういうヒーローものにまったく食指を動かさず、「スター・ウォーズ: エピソード3」すらパスしていたうちの女房が珍しくも自分から見に行くと言い出し、しかも見終わった後にすごく感心して面白かったと言っていた。私も同感である。よくこれだけ大きな話を破綻させずに、一応筋を通して最後まで手堅くまとめたと思う。「ビギンズ」の最後は、ジョーカーが暗躍を始め、バートンの「バットマン」に繋がって終わっていた。まさかまたバートンの「バットマン」を作り直すとは到底思えないから、たぶんノーラン版「バットマン」の2作目以降は、いきなりロビンが登場して話が飛ぶことになると思うが、それでも、次作がどういう展開をするのか非常に楽しみだ。






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