The House of Mirth

ハウス・オブ・マース (歓楽の家)  (2001年1月)

最初、ブラッド・ピットが主演し、マドンナと盛大な結婚式を挙げて今、時の人であるガイ・リッチーが監督したコメディ/ドラマの「スナッチ (Snatch)」か、ショーン・ペン監督、ジャック・ニコルソン主演のサイコ・スリラー「プレッジ (The Pledge)」のどちらかを見に行こうと思っていたんだが、今一つ本当に乗り気になれない。ピットのああいう間抜け演技は私にとってはやはり大きなマイナスだし、ニコルソンも今回はとりたててアピールしない。さらに両方に今人気急上昇のベニシオ・デル・トロも出ているんだが、なぜだか今回はとにかく地味な映画が見たくなって、急遽「ヤンヤン夏の想い出」にしようと決心する。そしたらこの映画、3時間もあるために時間が合わない。消去法で「ハウス・オブ・マース」になってしまった。ま、主演のジリアン・アンダーソンは結構誉められているし、いいか。


「ハウス・オブ・マース」は、20世紀初頭の上流階級の女性を描いた所々の作品で知られるイーディス・ウォートンが書いた同名の原作 (邦題: 歓楽の家) を映像化したものである。主人公のリリィ (アンダーソン) は適齢期をやがて過ぎようとするニューヨークの上流階級出身の女性。金持ちの伯母の豪邸に住んでいるが、しかし、リリィ自身は賭けブリッジで借金があり、決して楽な生活というわけではなかった。同じく上流階級のローレンス・セルドン (エリック・シュトルツ) とお互いに好き合ってはいるが、ローレンスは独身主義でリリィと結婚する気はない。生活の維持のために他の好きでもない男と結婚しようとは思わないリリィの毎日は、段々逼塞してくる。リリィの生活態度が気に入らない伯母はリリィにほとんど遺産を残さず他界し、リリィは、ついに生まれて初めて生活のために働きに出なければならなくなる。しかしもちろん、手に大した技術も持ってないリリィができることはほとんどなく、生活は日増しに貧窮していく‥‥


私はほとんどウォートンを読んだことがないが、アメリカでは必読の作家であり、愛読者は今でも多く、作品のTV映画化は引きも切らない。多分フェミニズムを先取りしたような作風が受けているのだろう。私は映画化されたマーティン・スコセッシの「エイジ・オブ・イノセンス」とリーアム・ニースンが主演した「哀愁のメモワール」(最低の邦題! なぜ「イーサン・フロム」じゃだめだったのか) くらいでしか知らなかったので、「ハウス・オブ・マース」も単に20世紀初頭の上流階級の女性の自立を美しい映像で描いた作品かな、くらいにしか思っていなかった。私が頭に描いていた映画のイメージは、シャーウッド・アンダーソンである。描かれている階級は違うとはいえ、彼の作品では事件らしい事件というものはほとんど起こらないが、それでもいったん読み出すと止まらない面白さがある。「ハウス・オブ・マース」にもそういうものを期待していたのだ。


実際、映画の前半部は大した事件らしい事件も起こらず、主人公リリィを巡る人間関係とかいうものをゆっくりと描くだけで、そういうものを求めて見に行ったとはいえ、退屈してしまう。ずっとこんな感じで進むならば出ようかと思ったくらいだ。そういえば「エイジ・オブ・イノセンス」もそうだったな。これがスコセッシかというような鈍重な作品だった。もしかしたらこの手の作品を楽しめないのは、私がそういう上流階級とはまったく縁のない小市民だからか。しかしヴィスコンティとかマーチャント/アイヴォリーとかの映画は面白いと思いながら見れるわけだから、そうとも言えない。やはり演出の問題か。


作品が面白くなるのは、後半、プライドと自立心が妨げとなって、リリィの生活が転げ落ちるように貧窮していくようになってからである。結局、何も起こらない映画を見に行って、本当に何も起こらないので退屈だと言ってしまうのは、傲慢な観客を絵に描いたような誉められざる態度である。製作者にはごめんなさいと言うしかない。しかしここでへ理屈をこねさせてもらうと、ほとんど何も大したことなんか起こらないのに、スクリーンから目を離せなくなるような、そういう映画も存在するのだ。ついでに思い切って言ってしまうと、何も起こらないからといって観客に退屈だと思わせてしまうような映画は、やはり一級だとは言い難い。小津安二郎の映画を見てみろ。ヴィム・ヴェンダースの初期の作品を見てみろ。


ジリアン・アンダーソンは、ほとんどの人が「X-ファイル」でしか彼女のことを知らないだろう。かくいう私も、映画を見てる間中、頭の片隅で、へえ、スカリー、結構やるじゃない、スカリーってわりと演技派だったんだなあ、と、常に「X-ファイル」と比較しながら見ていた。これは役者にとってははっきり言って損だろう。しかしその役者についての前知識が一つしかなく、しかもそれが強力な場合、見てる方としてはどうしようもないのだ。結局、アンダーソンがリリィとして成功していたかというと、私としては判断不能である。スカリーは頑張ったよとしか言い様がない。


それでも、アンダーソンはこの作品で結構誉められている。私も、少なくとも自分がここまでやれるということを証明して見せた点で、彼女の選択は悪くなかったと思う。「この胸のときめき (Return to Me)」みたいな誰も見ていないラヴ・コメに出演してしまったデイヴィッド・デュカヴニーよりは、うまくキャリアを築いていると言えるだろう。デュカヴニーは今シーズン限りで「X-ファイル」を降りることも決まっているのに、このままじゃあ、「NYPDブルー」出身でそのままTVに出ていればよかったものを自分に人気があるものと過信してしまったために、映画に進出してキャリアを誤ったデイヴィッド・カルーソの二の舞いにならないか心配だ。


他の出演者では、出番は少ないながらも、あの一度見たら忘れられないえくぼ顔で、笑いながらアンダーソンを奈落の底に突き落とす嫌な女バーサを演じたローラ・リニーが最も印象的。彼女は「ユー・キャン・カウント・オン・ミー (You Can Count on Me)」でも絶賛されており、演技派として順調に階段を上っているという印象を受ける。ローレンスを演じたエリック・ストルツも悪くない。ほとんど飾りでしかなかった 「ワン・キル」よりはこちらの方が断然いい。ダン・エイクロイドは‥‥やはり役者として生きていくのは無理なんじゃないでしょうか。


結局、この作品が成功していると断言できないのは、監督のテレンス・デイヴィーズの演出力のせいだと思う。冒頭、何かのミュージカルと見間違うような、並んだ傘を舐めて汽車に乗り遅れたリリィに寄っていくショットは、何かを勘違いしているとしか思えなかった。しかもそういうふうにやるなら「マイ・フェア・レディ」みたいに最後までそれで通せばいいのに、この冒頭のショット以外は正攻法で、だったらない方がよかった。「エリン・ブロコビッチ」の最初の3分間で作品の出来を確信させてくれたスティーヴン・ソダーバーグとは大きな違いだ。全体的に監督の演出力よりは出演者の演技力に拠っており、この監督の作品だから次もまた見てみたいという気にはまったくさせてくれなかった。デイヴィーズの出世作で、ストーリーらしきものはあまりなかったけれども、とにかく自分が撮りたいものだけを撮ったという雰囲気が濃厚で、最後まで飽きさせずに見せてくれた「遠い声、静かな暮らし」が懐かしい。ふう。やはり来週「ヤンヤン」を見に行こう。







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