The Girl Who Played With Fire (Flickan som lekte med elden)
ミレニアム2 火と戯れる女 (2010年9月)
The Girl Who Played With Fire (Flickan som lekte med elden)
ミレニアム2 火と戯れる女 (2010年9月)
ミカエル (ミカエル・ニクヴィスト) の雑誌ミレニアムはヒューマン・トラフィッキング組織に迫る特集記事を企画していたが、その記者が惨殺される。時を同じくして後見人からの連絡が途絶えたため、リスベットは再びスウェーデンに舞い戻る。しかし後見人は殺されており、しかもかつて彼女が手にした銃の指紋から、リスベットは殺人の容疑者にされてしまう。リスベットは独力で捜査を開始、そしてリスベットの無実を信じているミカエルもまたリスベットを助けるべく行動を開始するが、謎の金髪の大男がミカエルとリスベットの行く手を阻む‥‥
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スティーグ・ラーソンの世界的ヒット・ミステリを映像化した「ミレニアム」3部作は、アメリカでも好評をもって迎えられている。第1話の「ドラゴン・タトゥーの女 (The Girl with the Dragon Tattoo)」はかなりロング・ランになったし、ハリウッドでのリメイクも決まった。そして間髪を入れず、第2話の「火と戯れる女」の公開だ。
「火と戯れる女」は、「ドラゴン・タトゥーの女」から時間的には少し間を置いて始まる。晴れて潔白が証明されて刑務所から出てきたミカエルだったが、しかしリスベットの消息は知れなかった。そのリスベットは、後見人の弱みを握ることで彼女に有利に事態を運ばせていたが、その男からの消息が途絶える。一方、ミカエルの雑誌ミレニアムでも、特集を組んでヒューマン・トラフィッキングを調べていた記者が連続して惨殺される。それらの事件にはリスベットの後見人の男が所有していた銃が使用されており、しかもリスベットにとって不運なことには、その銃にはリスベットの指紋がついていた。警察はリスベットを指名手配し、そしてリスベットもまた事態を解決するために、そして過去と決別するために、スウェーデンに再び足を踏み入れる。
前作がリスベットを我々に紹介するための作品だったとしたら、今回はそのリスベットの生い立ちが明らかにされる。「ドラゴン・タトゥーの女」を見ただけだと、印象はハリウッドの往年のフェム・ファタールの完全犯罪ものに近いが、むしろ戦う女としてのリスベットが描かれる今回は、印象ががらりと変わる。対象と距離を置いて頭で勝負するサイバー・ハッカーとしてではなく、身体を張って男どもと対等にやり合う姿は、最近ではアメリカの山奥で一人で家族を背負う少女を描いたインディ映画の「ウィンターズ・ボーン (Winter’s Bone)」と重なり合う部分が多い。
「ドラゴン・タトゥーの女」でもリスベットはレイプされたり殴られたりし、それでも相手に戦いを挑んでいた。服装はパンクだし、男とでも女とでも寝るが、それでもやはり印象としては武闘派ではなく、頭で相手の裏をかく知能犯みたいなところがあった。だいたい、フェム・ファタールというのは知的でなくてはやっていけない。怜悧さがあって初めて相手を手玉にとる美貌が生きるのだ。ハッカーという職業に頭の回転の速さが必要なのももちろんだ。
そのリスベットが過去におさらばして南の国に去るまでが、「ドラゴン・タトゥーの女」だった。しかし「火と戯れる女」では、状況は一変する。むろん流れとしては前作の続きであり、今回は単純にリスベットはフィジカルなアクションに巻き込まれる機会が多いだけとも言えるが、しかしそれでも今回は、あくまでも暴力に屈しないことに生存意義を見出している。というか、死ぬか生きるかではフィジカルにばたばたして絶体絶命のピンチから逃げ出すか、相手をやっつけるしかない。やるかやられるかなのだ。結局リスベットが国に帰ってきたのは、そのことを証明するしかないことに気づいたからだとも言える。世界のどこに行こうと、過去はついて回る。そのことを清算しない限り前へは進めない。
「火と戯れる女」では、「タトゥー」で少しだけ描かれたリスベットの父が前に出てくると共に、新たに謎の屈強な銀髪の男が登場する。この男、およびリスベットに火をつけられて顔に大やけどを負った父が出てくることで、かなり作品の印象が猟奇的になっている。「タトゥー」が雰囲気描写を重視するサスペンス・スリラーだとしたら、ここでも「火と戯れる女」は実際に視覚的物理的に訴える。手でさわれるようなヴァイオレンス、猟奇趣味が特色なのだ。
このことは原作にも因るだろうが、前作のニールス・アルデン・オプレヴからスイッチした、今回の演出のダニエル・アルフレッドソンのスタイルとも関係があるかもしれない。第1作がリドリー・スコット演出のホラー、第2作がジェイムズ・キャメロン演出のアクション作品となった「エイリアン (Alien)」シリーズみたいと思ったのは、当然ハロウィーン・シーズンが近づいて、AMCが放送していた「エイリアン」を見たからだ。ところでリスベットの幼い頃を演じている子を見ると、「黙秘 (Dolores Claiborne)」でジェニファー・ジェイソン・リーの幼い頃を演じていたエレン・ミュースを思い出す。まったく瓜二つという気がする。虐待されている幼い子という設定も一緒だ。15年も前の映画だからもちろんミュースがここにも出ているわけはないが、しかしそっくり (という記憶。)
「ミレニアム」編集長のミカエルは、一見した印象では主人公だが、実際には狂言回し以外の何ものでもない。彼は実際のところ一人では何もできない。リスベットがいなければ彼は今でも刑務所から出られてないだろうし、「タトゥー」の事件の解決もできなかったのは言うまでもない。彼はリスベットから与えられたヒントによって導かれるままに動いただけなのだ。それでも結局危うく命を失いかけ、これまたからくもリスベットによって助け出される。
今回も結局、最後リスベットを助け出すことができるのは彼しかいないと思わせといて、彼がやったことは、事件が終わった後にやってきて状況を見とることだけに過ぎなかった。これだけ情けない主人公格というのも珍しい。正直言って、ミカエル以外の誰だろうと彼の代役は務まるだろう。
ただし、ミカエルにしかできないことがある。それはリスベットから信頼されるということだ。これだけは世界中でただ一人、彼にしかできない。「タトゥー」で敵の術中に陥り、いいように翻弄されて有罪となったミカエル。たぶん雑誌編集者としては特に有能とは言い難いであろうミカエル。だからこそリスベットはそこに価値を見出した。たぶんリスベットは、自分の戦いに誰の援助も協力も必要としていなかった。しかし負けた場合、自分の骨を拾ってくれる友人が一人くらいいてもいいと思っていた。それに選ばれたのがミカエルであり、だからミカエルは本当に重要な戦いにおいていつも一歩遅れて到着するし、自分の場合でもどうやら自分が渦中にいることすら気づかない。
むしろその無能さ、実直さこそ、常に緊張した生活を強いられているリスベットが求めているものだった。言い換えれば、ミカエルは常に遅れてくることを運命づけられているキャラクターであり、常に部外者であり、第三者だ。果たして彼は最終第3話でその位置から脱してリスベットに何か貢献することができるのか。作劇術としては当然そうなるはずだが、しかしこの3部作がそう一筋縄で行くともあまり思えない。というわけで、これまた今年中に公開するはずの第3話を待つしかないだろう。