The Dictator


ディクテーター 身元不明でニューヨーク  (2012年5月)

石油のおかげで潤っているアフリカの国ワディヤで独裁を敷いているアラディーン (サッシャ・バロン・コーエン) は、自分の思い通りになる取り巻きだけをそばに置き、反抗した者はすべて首を刎ねるなどやりたい放題だった。国力を世に知らしめるために核の開発に手を染め始めたアラディーンに国連は憂慮し、ニューヨークの国連本部に招いて演説させ、その真意を確かめようとする。意気揚々とニューヨークに乗り込んだアラディーンだったが、実は側近のタミール (ベン・キングズリー) はアラディーン転覆を企んでおり、さらにニューヨークには、アラディーンがかつて追放した同胞や、アラディーンを亡き者にしようとする者たちが大勢いた。アラディーンは裏切ったセキュリティによって自慢の髭を失うが、命からがら逃げだす。しかし髭のないアラディーンは誰もアラディーンとして認めず、ニューヨークの路頭に迷う結果になってしまう。そこに助け舟を出したのが、ブルックリンでオーガニック・フーズ販売店を経営しているゾーイ (アナ・ファリス) だった。アラディーンは一時的にゾーイの店で働き始めるが、しかし横暴な態度が身に染みついているアラディーンの態度は改まらず‥‥


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「ディクテーター」、タイトルを聞いただけだと一瞬、チャップリンの「独裁者」を思い出してしまうが、あちらは「The Great Dictator」、こちらは「The Dictator」と「Great」なしで、一応チャップリンに敬意を表していると言えるか。邦題が「独裁者」ではなく「ディクテーター」となっているのも、現代ではカタカナに慣れ親しんでいるからというより、チャップリンの「独裁者」と比較されることに恐れをなしたからという気がする。それにしてもやはり独裁者は昔も今もパロディの対象だ。


因みにIMDBで「The Dictator」と入れて検索すると、一番最初に100%マッチの「The Dictator」ではなく、チャップリンの「The Great Dictator」の方が先に出る。70年も前に製作された映画の方が優遇されている。しかしコーエンだって、チャップリンに本気で挑もうなんて思っているわけでもなかろう。というか、チャップリンって知ってる? と質問してみたくなるくらいだ。じゃないとチャップリンと比較される作品なんて、怖くて作れない。実際自作のタイトルで検索して、異なるタイトルのチャップリン作品が自分の作品より上に表示されると、がっかりするだろうと思う。とはいえ「Dictator」と聞いて人が即座に連想するのは、それはやはりチャップリン作品の方だろうと思うのだった。


英国人のコーエンがアメリカでも知られるようになったのは、HBOで放送された「アリ・G (Ali G)」以来だろうが、彼の名を全国区に押し上げたのは、なんといっても「ボラット (Borat)」だろう。次の「ブルーノ (Bruno)」もそこそこヒットし、客演としてもティム・バートンの「スウィーニー・トッド (Sweeney Todd)」やマーティン・スコセッシの「ヒューゴの不思議な発明 (Hugo)」なんかに出ている。素顔はどちらかというとわりと濃い目で端正な顔立ちだ。


そのコーエンが、映画やTVではお下劣独善のアリ・G、ボラット、ブルーノとなるからおかしい。私がアリ・Gを見た時の最初の印象は、とにかくお下劣エネルギー満載で、ジム・キャリーをもっと濃くして下ネタ化した感じかなというものだった。


一方、だからといってこれまでわざわざ劇場まで足を運んでコーエン作品を見たことがあるわけではない。なんとなれば、予告編からお下劣な臭いがぷんぷんと漂うコーエン作品を、わざわざ劇場の大きなスクリーンで見る気がしなかった。しかし今回の予告編では、自慢の髭を切られた独裁者が、素顔で下々の者と接するという設定のため、アリ・Gやボラット、ブルーノではないコーエンが登場する。印象としてはそれほど下ネタ満載という感じではない。さらに舞台は地元ニューヨークということもあって、なんとなく食指が動いたのだった。


予告編では、走ってくるイエロー・キャブに、コーエンがゴミ缶を投げつけるシーンがある。正確にはイエロー・キャブにゴミ缶を投げつけるのではなく、お構いなく路上に投げつけたゴミ缶が、ちょうど走ってきたイエロー・キャブのウィンドシールドを直撃するというものだが、普段からイエロー・キャブの無法運転にイラつかされている身としては、このシーンだけでも溜飲を下げる思いで、正直、このシーンを大きなスクリーンで見て笑い飛ばしたいがためだけに、金払って劇場で見たというのが本当のところだ。演出は、これまでずっとコーエン作品を担当しているラリー・チャールズ。


映画では冒頭、故キム・ジョン-イルが登場する。現代を代表する独裁者だった者に対する目配せであり、独裁者を描く作品なら、当然の配慮だろう。そしてキムがスクリーンに映った途端、場内が爆笑する。北朝鮮国民がこの場に居合わせたら、それだけで国辱として核ミサイルを撃ち込んできかねない。届かないで海に落ちるだろうけど (これも危ない発言か。) しかし独裁者って、第三者的立場から見ると、本当にただの裸の王様でしかない。


アフリカ某国の独裁者であったアラディーン (コーエン) は、ニューヨークに招かれて国連で演説を行う手はずになっていたところを拉致される。実は側近であったはずのタミール (ベン・キングズリー) は、実は裏で政権転覆を画策しており、秘密裏にアラディーンに瓜二つの替え玉を用意して、国を民主化しようとしていた。


ここで替え玉、瓜二つ、影武者の登場だ。これって、やはり結局チャップリンの「独裁者」と同じ構造ではないか。要するに、独裁者を描くためには、必ず影武者が必要になる。そしてそのことがまた笑いを誘う。なぜなら、ある者の真似をすることは、真似された者の本質を強調し、いかに筋道が通っていないかということを浮き彫りにするからだ。それをチャップリンが作ると、一応、高尚、みたいな印象でとらえられ、コーエンが作ると下ネタ満載になる。


私は、パロディには反骨と愛情の二種類があると思っている。こんなやつ、こんな体制大っ嫌い、というのを、公にやると問題があるので、笑いのオブラートにくるむ、要するに鬱憤晴らしと、愛情の転嫁で真似をする、つまりオマージュを捧げるかのどちらかだ。「ディクテーター」が前者であるのは言うまでもない。ついでにだから下ネタがあろうとなかろうと本質には関係ないと思うのだが、しかし、やはり、コーエン作品を見せられると、お下劣ものって、特に見てて気持ちいいものじゃないと思うのだった。人のマスターベーションやわき毛を見せられて、うげーっとは思っても、私の場合、特に笑いにはならない。でも、観客の半分くらいはゾーイのわき毛に受けていた。あとの半分は、私を含め、受けなかった者でもあるわけだが。


「ディクテーター」は、その半分で素顔のコーエンが出る。これまでの主演作では皆メイク過多の別人になりすましていたが、「ディクテーター」では、半分は髭もじゃの独裁者ではあるが、もう半分はコーエンその人だ。たぶん、今後のコーエン作品は、アリ・G、ボラットといったこれまでの持ちネタを膨らませたものではなく、オリジナル・ネタになっていくものと思われる。コーエンの真価が問われるのはそれからだろう。










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