Hugo


ヒューゴの不思議な発明  (2011年12月)

1930年代パリ。ヒューゴ (エイサ・バターフィールド) は職人の父 (ジュード・ロウ) と一緒に住んでいたが父が他界、その後ヒューゴを引き取った伯父 (レイ・ウィンストン) も行方が知れなくなる。ヒューゴは駅の時計を管理するという伯父の仕事を代わりに務めることで、たった一人誰にも知られずに駅の内部に住んでいた。ヒューゴは、父が死ぬ寸前まで熱心だった機械細工のロボットを完成させることに情熱を注いでいたが、それにはどうしても部品が必要で、駅構内に店を出しているジョルジュ (ベン・キングズリー) の目をちょくちょく盗んで調達していたが、ある日捕まって、父がロボット内部のデッサンを記した手帳を取り上げられてしまう。あれがないとロボットが完成しないため自宅までジョルジュの後をつけたヒューゴは、そこでジョルジュの孫イザベル (クロイ・グレイス・モリッツ) と知己を得る。秘密大好きで冒険好きのイザベルは、ヒューゴに興味を抱き力を貸すようになる‥‥


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「ヒューゴの不思議な発明」は、ブライアン・セルズニックの「ユゴーの不思議な発明」の映像化だ。もちろん「ヒューゴ」は英語読み、「ユゴー」は舞台となるフランス語読みだ。私は眼が疲れるので基本的に特に3D映画には惹かれないのだが、「ヒューゴ」の実写かアニメーションか判然としないどこかレトロな予告編はなかなかそそるものがあった。さらに監督がマーティン・スコセッシと聞いて、M. ナイト・シャマランの「エアベンダー (The Last Airbender)」以来久しぶりに3D映画を見に劇場に足を運ぶ。


3Dというと、なんとなくすぐ、眼前にまで迫ってくるアクションを短絡的に連想しそうだが、実は3Dが効果的なのはアクションだけに限らない。「エアベンダー」で最も効果的に3Dが用いられていたのは、冒頭の水を操るシーンだった。まあ、それもアクションと言えないことはないだろうが、しかしジェイムズ・キャメロンの「アバター (Avatar)」においても、私にとって最も印象的だったのは、雪だか何だかよくわからない微小な物体が空中を浮遊する外の世界の遠景だったりする。手を伸ばせばそこに雪の破片が舞い落ちてきそうな、それがとてもよかった。


そして「ヒューゴ」でも冒頭、冬のパリの遠景をとらえるショットに描かれるのは、当然雪だ。雪が眼の前を舞っている。なんかもう、それだけで、ああ、やはりスコセッシ、わかってらっしゃる、と安心して物語の世界に身を浸すべく、どっぷりと椅子に身を沈める。


それでも、なかなか面白い話ではあるが、大人も読める寓話的な話ではあっても、なぜスコセッシがこれを撮ろうと思ったのかという疑問はついて回る。今HBOでスコセッシが製作している「ボードウォーク・エンパイア (Boardwalk Empire)」はかなりヴァイオレントな描写が横溢しているので、それに対する反動か、なんて考えたりもする。蛇足だが「ボードウォーク・エンパイア」は登場人物が思う存分切れてしたい放題行動する第2シーズンの方が圧倒的に面白い。かつての「ザ・ソプラノズ (The Sopranos)」に匹敵するものがあり、「ボードウォーク・エンパイア」を見ると、子供向けの作品を撮ってバランスをとろうとしたというのは、かなりあり得ると思う。


パリという舞台、ある建物の人の知らない裏側を縦横無尽に歩き回り神出鬼没に出没する主人公という設定で連想するのは、これはもう「オペラ座の怪人 (The Phantom of the Opera)」以外あるまい。原作が「怪人」を踏まえているのは確実だと思う。「ヒューゴ」ではオペラ座が駅になったわけだが、そこに集まる人の多さやアクティヴィティを考えると、こちらの方が種々雑多な楽しさがありそうだ。


ターミナル駅というのは男の子にとってはそそる場所であるのは確かだ。私もガキの頃、駅とは違うがデパートが楽しく、ここで暮らせたらどんなに楽しいだろうと、小学校低学年のある時、友人と一緒に催事場のテーブルに掛けられているカヴァーの後ろに閉店後まで隠れていようと画策したことがある。誰もいないデパートだ。玩具売場に行けば遊び道具に困らない。腹が減れば食堂の階に行けばいい。


とまあなんと無謀というか愚かな考えを実行に移そうとしたはずだが、どういう理由でこの計画が未遂のままで終わってしまったかは、実はもう記憶があやふやで定かではない。店員の目を盗んでテーブルの下に隠れたところまでは覚えているのだが、閉店後のデパートを闊歩した記憶はない。どこかで心細くなって挫折したかあるいは見つかって追い出されたか、どうもあまり思い出したくない記憶なので勝手に心が封印しているようだ。きっと思い出さないままの方がいいに違いない。そういう、きっと男の子が小さい時に誰でも一度は夢想したに違いないユートピアでの一人暮らしを実践しているヒューゴには、正直言って多少の嫉妬を禁じ得ない。好き勝手し放題で誰にも見咎められることもない。


しかしもちろんそういう幸福な時代は長くは続かない。人のものをくすねていれば見つかれば罰せられるし、駅構内にはそういう保安の係りの者がいる。ヒューゴがいつも部品をくすねる店の親父だって、いつまでもそうそうただのにぶい親父でいるわけではない。ヒューゴもついには親父に現行犯でつかまり、父が描いたロボットの素描メモを没収される。それはヒューゴにとってはなによりも大事なものだった。


そのロボットを見た時に、なんかフリッツ・ラングの「メトロポリス (Metropolis)」に出てくるロボットみたいだなとは思ったのだ。むろん時間軸としては映画の黎明期に製作された「ヒューゴ」のロボットの方が古い。いずれにしてもカンのいい者なら、「ヒューゴ」は映画に対する愛着、オマージュを捧げた物語であることにかなり早い段階で気づいたと思うが、私はほとんどベン・キングズリー演じるジョルジュ・メリエスが実際に映画を製作していた時代の回想シーンになるまで、そのことにほとんど気づかなかった。駅構内に住むヒューゴと、彼を助けるイザベル役のクロイ・グレイス・モリッツの可愛いさに気をとられていたのだ。


スコセッシが撮っているのである。当然こういう展開があることは予想できててよかった。「ヒューゴ」はスコセッシの映画に対する愛情を表現した作品であるわけだが、そのできてきたものがまたスコセッシらしい。今、映画の祖メリエスが生きていたら、3Dに興味を抱き、3D作品を撮ったのは確実だ。しかし、かといって、そのメリエスがものにした作品を今、わざわざ手を入れて色もつけて3Dにして撮り直してしまう必要があるのか。それをやってしまうほとんど倒錯的とも言える愛情表現が、スコセッシの「ヒューゴ」なのだった。他の者がやれば明らかに映画に対する冒瀆になってしまうものが、スコセッシがやることでかろうじて愛情表現に留まっている。それでも、私は後半は結構肩をすくめる様な気分でスクリーンを見ていた。やっぱり一筋縄では行かなかった。









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