Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street   

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師  (2008年1月)

19世紀ロンドン。理髪師のベン (ジョニー・デップ) は美しい妻とともに幸せな生活を営んでいたが、ベンの妻に横恋慕した判事ターピンの策略により妻を奪われ、ベンは国外に追放される。十数年後、ロンドンに帰ってきたベンの胸の内にはターピンに復讐することしかなかった。ベンはスウィーニー・トッドという別名でフリート街に理髪店を構え、次々と人を殺し、そしてその肉の塊は階下でミート・パイ屋を営むロヴェット夫人 (ヘレナ・ボナム・カーター) に提供するのだった‥‥


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ティム・バートンの新作はブロードウェイの同名ミュージカルの映像化だ。とはいえこのスウィーニー・トッドの話自体はロンドンのクラシックの都市物語としてよく聞く話であり、既に何度も映像化もされている。ペイTVのショウタイムがベン・キングズリーを主人公に配してTV映画化したというのもあった。


そのため私は最初、バートンがスウィーニー・トッドの話を撮ると聞いても、それがブロードウェイの映像化だとは思わなかった。それが劇場やTVで予告編がかかるようになって初めて、お、これはミュージカルだったのかと驚いた。むろんバートンは前作の「チャーリーとチョコレート工場」でもミュージカルに手を染めており、別にミュージカルの門外漢というわけではない。


それよりも気になるのは、近年のバートンの作品は、「チョコレート工場」を含め、「猿の惑星」、しかも次に予定されているのが「不思議の国のアリス」等、リメイク、あるいはクラシック物語の映像化が続くことだ。しかもたぶん現夫人のヘレナ・ボナム・カーターの影響もあるのか、英国を舞台とする作品が続く。捻ったバートン独特のユーモアの感覚が英国人と共通する点も多いせいもあると思われる。


いずれにしても私はおかげで公開間近になるまで「スウィーニー・トッド」がミュージカルだとは気づかなかったわけだが、それは大方の人間もそうだったようだ。まず私の女房も、あれだけスウィーニー・トッドに扮したジョニー・デップの写真を至る所で見ていたくせに、やはりこれがミュージカルだとは知らなかった。


そのことがてきめんに現れたのが、8割方埋まった劇場内で、上映が始まって10分くらい経って、私たち夫婦の数列前に座っていた5、6人の女の子連れがもぞもぞし始め、ひそひそし始め、そして連れ立って席を立って劇場を出て行ってしまったことだ。「パイレーツ・オブ・カリビアン」人気で今をときめくデップ主演ということで勇んで見にきたはいいものの、予想外の展開にどうしようとぼそぼそ相談し合った挙げ句、出て行くことを選んだらしい。元々今のデップ人気の礎はバートンとデップの二人で築いたものであり、「パイレーツ」のキャラクターはその延長線上にあるわけだが、それでも今回のデップのキャラクター、それよりも何よりもミュージカルというそのことが女の子のティーンエイジャーにはアピールしなかったようだ。


そして実際、私もなんとなく不思議に思ったことは事実である。バートンがミュージカルを撮ること自体に違和感があるわけではない。しかしバートンがオリジナルのミュージカルではなく、出来合いのブロードウェイ・ミュージカルの映像化の演出を請け合ったということに対しては、しっくりしないものを感じる。なんでわざわざバートンがオリジナルではなく、既にある舞台を映像化しなければならないのかがよくわからない。これが古典や戯曲の映像化というならまだわかるが、既によく知られている音楽がバートン作品で流れてくると、その瞬間、えも言われぬ居心地の悪さというか、何かが収まるべきところに収まっていないという感覚を味わってしまう。


私はブロードウェイのオリジナルの舞台を見ているわけではないが、それでもやはり有名な曲の数々は耳にしている。それらの曲がデップやカーターによって歌われる。それらのできではなく、単にしっくり来るかこないかの問題だ。そしてその微妙な居心地の悪さは、作品を見ている間中ついて回る。 たぶんバートンは今後、このようなクラシックの映像化路線に進んでいく可能性が強いと思われ、我々観客はそのことに対してアジャストしていかなくてはならないようだ。 むろん、バートンの絵作りである。面白いのだ。面白くはあるが、しかし今回は驚きの方が大きかったとは言える。


とはいえどうやら面白いとは思えなかった者も多いようで、冒頭10分で劇場を出て行ったティーンエイジャーの女の子たちに加え、私の女房は、上映が終わった後、ぼそっと、寝ちゃった、と呟いた。おまえ、なんてやつ。実は女房はそれほどバートンと相性がいいわけではなく、あのキッチュな味をかなり退屈に感じる方で、「ビッグ・フィッシュ」は興味がないと言われて私一人で見たし、「チョコレート工場」はもとより「猿の惑星」もまあまあ、私が熱中して見ていた「スリーピー・ホロウ」も、彼女にとっては特に面白いものではなかったらしい。バートン作品が見る人を選ぶというのはわからないではない、


特に今回は上にも書いたように、ブロードウェイの映像化ということもあり、いつものバートン色からさらに位相がずれている。元々バートン作品と相性が合わないやつに加え、私みたいなファンにもいつもと違うと感じさせ、デップ・ファンも劇場を出て行ってしまう。あるいはバートンやデップをまったく知らない者の方が最も楽しめる作品なのかもしれない。


それでもこの作品に違和感ではなく不満があるという点を敢えて挙げるなら、それは主人公のトッドに充分な悲劇性が与えられていないように感じられる点にあるという気がする。ブロードウェイの映像化という点でも、先に映像化された「オペラ座の怪人」の主人公の絶望の大きさに較べ、今回のトッドの殺人、人肉売買摂食行為の必然性は、説得力を欠く。むろんそもそもが都市伝説のようなものだから説得力云々は本当は必要ないのだが、バートン作品のように、だいたいいつもずれていて、とある場所から弾き出されるというタイプが主人公であることが多い場合、その主人公が拭い難い悲劇性をまとう、少なくともそういう雰囲気を醸し出すことが重要であることは言うまでもない。


このバートンの持ち味が見事にはまったのが、負のヒーローのバットマン、および バットマンに対して勝るとも劣らない印象を残した悪役のペンギンの造型で、「バットマン」は、クラシック・ヒーローであったバットマンという存在、および観客のヒーローに対する接し方を一夜にして変えた。そのことを思えば、「スウィーニー・トッド」の少なくとも欠点と見える点は明らかであると思われる。 つまり、われわれはバートン作品において高らかに歌い上げるヒーローなんか欲してないのだ。


いくらトッドがそれなりに辛酸をなめたとはいえ、その復讐の暗い欲望を大声でメロディに乗せて表明してもらいたくはない。要するに「スウィーニー・トッド」に対するある種の違和感はここに発している。見せ場が必要なブロードウェイならともかく、バートン作品の負のヒーローに自分の気持ちや来し方行く末や将来の展望をセリフにするだけでなく、それを歌にして天を向いて歌い上げてもらいたくはないのだ。もちろんそれをデップがやることによる意外性やギルティ・プレジャーはないわけではないが、しかし、やはりバートン作品の登場人物には、下を向いて暗く気持ちを内向させ、低くぼそぼそと歌ってもらいたい。それがスウィーニー・トッドならなおさらだと思うのだ。







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