Mank


マンク  (2020年12月)

アメリカではついに新型コロナウイルスのワクチン接種が始まった。とにかくこれでウイルス蔓延が沈静化するのを祈るばかりだ。しかしワクチン開発の時間が1年未満と短いので、安全性が疑問視されているのも確か。かくいう私たち夫婦も、本当に安全かどうか確認できるまで、あと数か月は待ってもいいんじゃないかと話してたりする。既に1年近く待ったんだ、あと2、3か月くらい何だ。ま、どっちにしたって順番待ちであと数か月はかかるだろうが。 

 

結局映画館通いも半年以上途絶えたままで、ついにできれば映画館のスクリーン上で見たかったクリストファー・ノーランの「テネット (Tenet)」も、見ないうちについにVODに降りてきてしまった。残念だが、万が一があった場合ダメージを受けるのはこっちなので、ここは映画館通いは我慢するしかない。いずれにしても、VODに降りてきたはいいが、今はまだ20ドルくらいで逆に映画館で見るより割高になってしまうので、ここはもうちょっと安くなるのを待つ。 

 

さて「マンク」だが、かのオーソン・ウエルズの「市民ケーン (Citizen Kane)」脚本家のハーマン・マンキーウイッツを描くドキュドラマだ。演出はデイヴィッド・フィンチャーで、事実ものとしては以前「ゾディアック (Zodiac)」「ソーシャル・ネットワーク (The Social Network)」を撮っているとはいえ、今回はかなり毛色が違う。 

 

実は「マンク」は、フィンチャーの亡父のジャック・フィンチャーが1990年代に書き上げていたものだそうだ。当時、フィンチャーはその脚本を使って、「セブン (Seven)」で起用したケヴィン・スペイシーと「パニック・ルーム (Panic Room)」のジョディ・フォスターを起用して「マンク」を撮ろうと企画していたが頓挫、今になってそれがようやく日の目を見たということらしい。 

 

その「マンク」、近年一定の頻度で撮られているモノクロ撮影だ。ただし今回の場合は、なんといっても同様にモノクロ作品の「市民ケーン」に対するリスペクト、およびオーセンティシティの継承ということで、流行り廃りとは別に最初からすんなりモノクロで撮ることが決まっていたと思われる。別に、逆に色がついている「市民ケーン」の世界を見てもいいと思わないこともないが。 

 

一方、「マンク」は、「市民ケーン」製作の舞台裏を描くと言えないこともないが、正確には、「市民ケーン」脚本完成までの舞台裏を描くもので、実際に「市民ケーン」撮影の模様を描くものではない。個人的には当時の技術の粋を極めて撮影された製作現場の方こそ興味なくもなかったけれども。 

 

よく1939年は、ハリウッド最良の年と言われる。1939年というと、「風と共に去りぬ (Gone  with the Wind)」、「オズの魔法使い (The Wizard of Oz)」、「駅馬車 (Stagecoach)」、「スミス都に行く (Mr. Smith Goes to Washington)」等の、クラシック名作が相次いで公開された年で、ハリウッドは質量共に全盛期を迎えていた。「マンク」の舞台となる1940年ハリウッドは、その翌年、ハリウッドがまだその勢いに乗っていた時に当たる。 

 

さらにオーソン・ウエルズはというと、1938年、全米をパニックに陥れたというかの有名なH. G. ウエルズの「宇宙戦争 (The War of the Worlds)」ラジオ放送で一斉を風靡して時の人となっており、RKOと前例のない有利な条件で映画製作を契約していた。これまで常にステュディオが持っていた映画の最終編集権すらウエルズに与えるというもので、金は使い放題のほとんど完全な自由を与えられてウエルズが製作に取り組んだのが、「市民ケーン」だった。 

 

そして「市民ケーン」脚本執筆を依頼されたマンクことハーマン・マンキーウィッツはというと、交通事故で足を怪我して療養中であり、ついでにハリウッド郊外で療養隠遁しながら脚本を書くことになる。映画はそこでほとんどアル中状態で執筆‥‥が進まず悶々とするマンクと、マンクが書いている「市民ケーン」の素材となった1930年代ハリウッド、特にハリウッドに影響力を持っていた新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと、彼の寵愛を一身に受けた女優マリオン・デイヴィースを描く。 

 

「マンク」が作品として非常に残念だったのが、この内容が、現代のMeTooムーヴメントの文脈の中でとらえられると、微妙に歪なものに形を変えて人々に見られたことだ。ストリーミングで提供が始まると、作品としてのできよりも、まずその内容ではなく、主人公のマンクに扮するゲイリー・オールドマンと、妻のサラに扮するタペンス・ミドルトンの歳の差が取り沙汰された。 

 

オールドマンは1958年生まれで現在62歳。対してミドルトンは1987年生まれで現在33歳だ。実に歳の差が30歳近くある。一方現実では1897年生まれのマンクが「市民ケーン」を執筆していた1940年は、43歳、妻も同い歳だった。つまり43歳の夫婦を、映画では男の方は62歳、女の方を33歳が演じている。因みにマンクがほとんどアル中で死ぬのは1953年、まだ55歳だった。 

 

この演じる俳優の歳の差は、取りも直さずハリウッドの映画のキャラクターに対する考え方を反映している。つまり、男は多少歳とって物事の酸いも甘いも噛み分けるくらいの年齢に達した方が味がある。一方女性は、やはり若くて美しい方がいい、というものだ。 

 

元よりその題材であるハーストとデイヴィースの歳の差ももちろんだ。1863年生まれのハーストと1897年生まれのデイヴィースの歳の差は34歳。作る側が実際にそういう歳の差を実践していたから、作られたものもそうなったという側面はありそうだ。要するに、ハリウッドって、昔からそうだった。因みにハーストとデイヴィースを演じるチャールズ・ダンスとアマンダ・サイフリッドは、ダンスが1946年生まれの74歳、サイフリッドが1985年生まれの35歳で、こちらの方は努力せずに現実に近い歳の差になった。あるいはやはり39歳という歳の差に憤る者もいるだろうか。 

 

一方で、こういう便法を今さら気にする必要もないのではという気もする。個人的には、俳優の歳の差よりも、ハリウッド映画の約束事ですらある、登場人物が外国人であった時の話し言葉の取り扱いの方がよほど気になる。つまり、例えば登場人物がフランス人であるとすると、アメリカ人俳優が、フランス語訛りの英語でセリフを喋る。それも舞台はパリなのに?  

 

だったら最初からフランス人俳優を雇ってフランス語を喋らせろと私は思う。こういう便法は、私にとってはほとんど詐欺のように見えるが、どうやらこの意見は少数派のようで、特にこのことに文句をつけている輩は、ごく稀に見ないわけではないが、圧倒的少数派だ。意見としては私が唱えていることは間違ってはいないと思うが、これが実現する見込みは今のところまったくない。 

 

同様に、ハリウッド俳優の歳の差カップルも、今後も続いてくだろう。もし当初の予定通りスペイシーとフォスターのペアで「マンク」が製作されていたら、90年代当時なら二人共ほとんど同い歳でマンクとも同世代ということになって、誰からも文句のない作品が撮れたと思うが、今となっては考えても詮ないことだ。 











< previous                                      HOME

1940年、RKOから破格の優遇を受けていたオーソン・ウエルズ (トム・バーク) は、新作の脚本執筆をハーマン・マンキーウィッツ (ゲイリー・オールドマン) に依頼する。マンクは交通事故を起こしてほとんど動けないこともあり、家もまばらな郊外の一軒家で、秘書のリタ (リリィ・コリンズ) に口述筆記しながら執筆を進める。その話は1930年代、マンクがハリウッドで経験した事実、特に新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト (チャールズ・ダンス) と、彼が寵愛した女優マリオン・デイヴィース (アマンダ・サイフリッド) との関係を色濃く反映したものだった。執筆は遅々として進まず、マンクのアルコールの消費量ばかりが増え、締め切りまで残すところ3週間となる‥‥ 


___________________________________________________________

 
inserted by FC2 system