1960年代末、サンフランシスコを中心とした連続殺人事件が起こる。ゾディアックと名乗る殺人犯は、大胆にも次の殺人を予告した声明をSFクロニクル紙を中心としたマスコミや警察官系に送りつける。SFクロニクルの記者エイヴリー (ロバート・ダウニーJr.) は独自の理論でゾディアック絞り込みにかかり、紙に務めているカートゥニストのグレイスミス (ジェイク・ジレンホール) もその後を追う。一方SF署のトスキ (マーク・ラファロ) とアームストロング (アンソニー・エドワーズ) も執拗にゾディアックを追うが、ゾディアックは尻尾をつかませなかった‥‥


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デイヴィッド・フィンチャーの新作は、60年代末から70年代にかけてサンフランシスコの街を恐怖に陥れたシリアル・キラーを描くドキュドラマだ。SFクロニクル紙のカートゥニスト、ロバート・グレイスミスはごく近くからこの事件を目にすることができる立場におり、さらにクロニクル紙の記者エイヴリーと近しくなったこともあって、事件にのめり込んでいく。「ゾディアック」はそのグレイスミスの視点から見た事件を主軸に、SF警察で主として事件を担当したトスキを絡ませて紡いでいく。


一応主人公はグレイスミスということになっているのだが、映画が始まって最初の方はゾディアックに関係する事件自体の話が主体であり、特に彼に出番があるわけではない。その後も動き出した警察とクロニクル紙の記者の方が主体で、特にグレイスミスが活躍する余地はない。グレイスミスが出張って来るのは、中盤以降、彼とどうやら遊軍記者っぽいエイヴリーがつるむようになって、エイヴリーが部外秘の情報のいくつかをグレイスミスに小出しに見せるようになり、それを元にグレイスミスが自分で推理するようになって事件にのめり込んでいってからだ。だから中盤あたりまでで最も主人公らしいのは、実は事件を担当している刑事のトスキ、およびその相棒のアームストロングだ。


このように「ゾディアック」は主人公が替わっても充分咀嚼していくだけの時間を持っている。2時間40分あるのだ。たぶんこれだけの時間をかけたのは、10年以上にわたるゾディアックが事件を起こしたスパンを急ぎ足じゃない感じでカヴァーするためだろうと思うし、実際、その間に登場人物を取り巻く環境も変わり、歳をとっていく感じも無理なく出ている。一方でそのためにもうちょっときびきびとまとめることもできたんじゃないかという印象も持たないではないが、フィンチャーはこのリズムを維持したかったんだろう。


リズムと言えば、全体を通して音楽の使い方のセンスが光るが、特に冒頭、最初の事件が起こる時、そしてその後、クロニクル紙ビルの中にカメラが入っていく一連のシークエンスの絵作りと音楽の使用は、当時の気分を再現すると共に全体の雰囲気を決定して非常に印象的。冒頭のスリー・ドッグ・ナイトには特に思い入れもないが (それがスリー・ドッグ・ナイトということも後で調べて初めて知った)、場面がクロニクル紙に移ってからのサンタナの「ソウル・サクリファイス」の使用はこれ以上ないくらいぴたりとはまって、鳥肌もんくらい興奮させる。私がこの曲に親しんだのは東京に出てきた80年以降だから、同時代でこの曲に親しんだ者ならもっとびりびり来るかもしれない。


その後も音楽はゾディアックが犯行におよぶ時に非常に効果的に使われるが、音楽なしでもフィンチャーの紡ぐゾディアックの犯行シーンは強烈だ。湖沿いにピクニックに来ているカップルを襲うのも、キャブのドライヴァーを撃つ時も、赤ん坊を連れた女性ドライヴァーを手にかけるのも、皮膚がちりちりとする怖さを醸成している。この辺の不気味さは、「セブン」よりこちらの方が上という感じが強力にする。なんでもフィンチャーは本物ということに強力にこだわったそうで、例えばキャブのドライヴァーが撃たれる交差点も、現実に事件が起きたその場所で撮影されているそうだ。


一方、その、事実にこだわったという姿勢のためか、実際にはそうだったのかもしれないが、一つの作品としては納得いかない、あるいは腑に落ちないという展開が結構ある。その中でも最大の疑問が、最初の事件で生き残った犠牲者が、ほとんど作品の最後になるまで容疑者の写真を見せられないという点で、途中で既に容疑者は浮かんでいるのに、犯人の顔を見ているたった一人の被害者に、真っ先に容疑者の写真を見せなかったというのは容易に納得がいかない。特になんか説得力のある理由があったとも思えなかったが。こういう、なんで、と思える展開は他にもいくつかあり、たぶん本当に起こったことだからという理由で撮影されたとしか思えない。でも、もし本当にそうだったとしたら、結構間抜けな話ではある。


俳優陣は強力だが、特にいいのがトスキを演じるマーク・ラファロとゾディアックの疑いをかけられるジョン・キャロル・リンチで、リンチはアメリカではたぶんシットコムの「ザ・ドリュウ・キャリー・ショウ」で最も知られていると思われるだけに、逆に今回の危ない役は印象に残る。エイヴリーに扮するロバート・ダウニーJr.は、最近は演じる役も私生活に浸食されているというか、そういう私生活だからこういう役ばかり回ってくるのか、見る度に最後はアル中かヤク中で身を持ち崩す。


今回もバーに酸素吸入器を持ち込んで酒を飲んでいるという役どころで、それでも役者辞めないのは見上げた役者根性と言うべきか。実はこういうのは残念だが、曲者揃いに挟まれて今一つぱっとしないのが主演のグレイスミスに扮するジェイク・ジレンホールで、出番が後半に固まってしまっていること、およびグレイスミスが、社内ではあまりぱっとしない窓際のカートゥーン描きに過ぎなかったということも関係しているかもしれない。実際には彼の書いた原作を元にしているわけだが。


ところで「ゾディアック」は、フィルムではなくヴァイパー (Viper) と呼ばれるHDカメラで撮影されているそうだ。たまたま知ったのだが、ついでに言うとマイケル・マンの「コラテラル」も同じヴァイパーで撮影されているそうである。まったく気づかなかった。ほとんどフィルムと同等の肌触りがあって、これだったら別にドキュメンタリー撮影じゃなくてもHD撮影でも構わないと思った。ただしこのくらいのレヴェルのHDカメラだと、ほとんど35mmカメラと同じくらいの細心のケアと準備が必要だそうで、記録メディアを装填して録画ボタンを押せばいいというのではないそうだ。


私の知人のカメラマンによると、プロ・レヴェルでフィルム・カメラでなくHDカメラを利用するのは、撮影時の簡便さではなく編集時のメリットが強い時、あるいはドキュメンタリーのようにたくさんフィルムを回す、あるいは録画する時に限るそうで、絵作りや撮影自体には今やもう両者の差はほとんどないと言っていた。なんでもフィンチャーはハリウッドでも一、二を争うほど簡単にOKを出さない監督だそうで、ニューヨーク・タイムズによると、現場で40回、50回のNGをざらに出していたらしい。要するにそういう点も鑑みてのヴァイパーの使用だったんだろう。技術は進歩しているというかなんというか。


映画を見て帰ってきてから持っているはずのサンタナの「ソウル・サクリファイス」を探したのだが見つからず、妥協して新しめの「スーパーナチュラル」ばかり、ちょっと違うなと思いながら聴いていたら、うちの女房に、すぐ影響されるんだからと言わんばかりのうざったい目つきで睨まれた。いいじゃないか、ほっといてくれよ。







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Zodiac    ゾディアック  (2007年3月)

 
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