Julieta


ジュリエッタ  (2017年1月)

「フリエタ」はペドロ・アルモドバルの新作だ。前回「アイム・ソー・エキサイテッド! (I'm So Excited!)」の時は、女房の同僚のベイビー・シャワーがあって、ちょうどその送り迎えに合わせられる、ラッキー、ということで、わざわざ遠いところまで見に行ったのに、あんな作品見せられてがっかり、というか頭に来た身としては、今回はいつも通りのアルモドバルを期待する。 

 

というか、「アイム・ソー・エキサイテッド!」みたいな作品が続くわけがないのは確信している。それはあり得まい。というわけで中身はチェックするまでもなく劇場に足を運ぶ。それにしてもその時はまだお腹の中にいた女房の同僚の双子の女の子の片割れは、今では保育園の問題児だ。可愛いんだけどね。時の経つのは早い。 

 

主人公フリエタはマドリードに住む中年の独身女性で、恋人とポルトガルに移住しようとしている。しかしある時、街で偶然会った、娘のアンティアのかつての親友から、スイスでアンティアを見かけたことを告げられる。実はアンティア昔、フリエタには何も告げずに家を出ていて、長い間消息が知れなかった。 

 

外国に移住してしまうと、今度こそ永遠に娘との関係が絶たれてしまうと思ったフリエタは、移住を思い直し、かつてアンティアと一緒に住んでいたアパートに移る決心をする。なぜアンティアは家を出て、今では連絡を絶っているのか、そもそもフリエタはいったいどういう人生を生きてきたのか、フリエタは娘に宛てた長い手紙を書き始める‥‥ 

 

そのフリエタの半生が波乱万丈奇想天外のものであるのは間違いなく、待ってましたとばかりにこちらの胸は期待に高鳴る。かつてフリエタ (アドリアーナ・ウガルテ) は臨時講師としてスペインのあちこちで古典を教えていた。ある時、夜行列車に乗っていたフリエタの前に、空いている他の車室ではなくわざわざフリエタが一人で座っている車室の向かいの席に、一人の男が入ってきて腰を下ろす。 

 

不躾な男の視線を不愉快に思ったフリエタは、車室を出て食堂車に入り、そこで食事中の海の男のショアン (ダニエル・グラオ) に出会って意気投合する。しかし途中、停車駅から動き出した列車が緊急停止した後、動き出す気配がなく、しかもフリエタの車室からは嫌な感じの男が消えていた。暫くしてその男が礫死体となって発見される。動揺したフリエタとショアンはフリエタの車室で愛を交わす。 

 

数か月後、臨時講師の勤めを終えたフリエタは海沿いの町に住むショアンの元を訪れる。そこには仕切りたがりの手伝いのマリアン (ロッシ・デ・パルマ) がいたが、ショアンはフリエタを歓待、やがてフリエタはアンティアを懐妊する。アンティアはすくすくと成長するが、身持ちがいいとは言えないショアンは時に浮気していた。アンティアが夏季キャンプで家にいないある時、フリエタはショアンの不実をなじって喧嘩となり、ショアンは船に乗るために家を空ける。しかしその時、嵐が急接近していて、巻き込まれたショアンは死亡する。 

 

ショアンを失ったフリエタはアンティアの成長だけを生き甲斐として日々を生きる。しかしマリアンから事故の子細を聞いていたアンティアは、ショアンが死んだのに自分だけ楽しい思いをしてキャンプを過ごしていた自責にとらわれ、さらにフリエタも許すことができないでいた。そして入念に計画して、ある時フリエタの前から姿を消したのだった。何も知らないフリエタは、何年も何年も、なぜアンティアがいなくなったのかわけがわからず、連絡一つも寄こさないアンティアを待ち続けていた‥‥ 

 

アルモドバルは親子関係、特に母と子の関係を描くと冴える。「オール・アバウト・マイ・マザー (All About My Mother)」然り、「ボルベール (Volver)」然り。今回はどうやら母と娘の関係みたいで、これは期待できそうだ。フリエタの回想シーンに入り、夜行列車で彼女の前に腰を下ろす男、外を列車を追うように走るシカと、思わせ振りなキャラクター、プロットが現れ、しかもどれも捨てキャラで本命はその後に出てくる食堂車の漁師だったという展開は、いかにも先の読めないアルモドバルらしく、思わずにやりとする。 

 

それにしても父と子の関係を描くことにはならないのが、いかにもアルモドバルらしい。フリエタの父は、アルツハイマーが進行してきた妻がいるのに、住み込みのお手伝いと浮気している。話としてはこちらも充分面白くなりそうだが、さらっと流して描かれるに過ぎず、中心はあくまでもフリエタとアンティアの母と娘の関係だ。 

 

楽しませてもらったが、後半さらにもう一捻りくらいあってもよかった。こちらとしては前回の貸しを返してもらいたいと思っているし、アルモドバルだから、これからさらにこちらを唖然とさせるどんでん返しみたいなものがあるかとちょっと気負っていたせいもあり、最後、フリエタとアンティアとの対面で絶対何か意外なことが起こるに違いないと思っていた矢先に、こちらの印象としては唐突に、映画は終わる。彼女らがなんと言うか、どんな表情を見せるか、アルモドバルなら見せると思ったのに。 

 

作品タイトルは主人公名の「フリエタ」なんだが、邦題をチェックしてみたら、「ジュリエッタ」になっていた。なんで? スペイン語だから当然フリエタで、映画の中では誰もジュリエッタなんて一言も言ってない。確か日本では外国語名の表記は現地の発音を尊重するということをどこかで読んだ記憶がある。時々やり過ぎで、アメリカ生まれのスカーレット・ジョハンソンを誰もそうは読まないスカーレット・ヨハンソンとわざわざ表記するくらいなのに、なぜ今回に限りジュリエッタとしてしまうのか。 

 

思うに Julieta の場合、あまりに英語読みのジュリエットという読み方が定着していて、フリエタにすると違和感を与えてしまうことを危惧したんじゃないかと想像する。そのため、せめて譲渡してジュリエッタで落ち着いたんじゃないか。しかし、Julio Iglesias は日本でもフリオ・イグレシアスで、誰もジュリオ・イグレシアスなんて呼ばない。だったらやっぱりフリエタでもいいと思う。単純に慣れの問題だ。 

 

と言ってはみても、実は私自身、映画を見るまでは字面を見ていただけで、ジュリエッタ一枚、と言ってチケットを購入していたのだった。そしたら上映が始まって、登場人物が彼女のことをフリエタ、フリエタと呼ぶので、そうだった、これはスペイン語映画だった、jはh発音だった、と気づいた。しかし、だからこそフリエタと読ませられる日本語では、タイトルは「フリエタ」にすべきだと思うのだった。 

 

一方「ジュリエッタ」だと少なくともこれが女性の名だと誰でも気づくが、「フリエタ」だと、日本ではなんの話か想像もできないという者も多いだろう。そのせいで興行成績が落ちる可能性は否定できない。結局そのせいでの「ジュリエッタ」なのかと思っていたが、実はこの映画、原作があった。カナダのアリス・マンローの短編集「Runaway」で、その邦題が「ジュリエット」になっている。話の幾つかの主人公の名が、ジュリエットなのだ。 

 

しかしそうすると、それなら映画タイトルも「ジュリエッタ」ではなく、「ジュリエット」にすべきではないのか。なんで「ジュリエッタ」なんて中途半端なタイトルになる。「フリエタ」か「ジュリエット」のどちらかになるのが正しい選択だと思う。どこにもジュリエッタなんて人物は存在しない。なんか消化不良で納得がいかんと思うのだった。 

 








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マドリードに住む中年女性のフリエタ (エマ・スアレス) は、恋人のロレンソ (ダリオ・グランディネッティ) と共にポルトガルに移住しようとしていた。ある時、街を歩いていたフリエタは、かつて娘のアンティアの親友だったベアと出会う。実はアンティアは、もう何十年も前に家を出ていったきり音信不通だった。ベアはスイスで偶然アンティアと出会ったことをフリエタに告げる。今、国外に引っ越してしまうと二度とアンティアに会えない恐れがあった。フリエタはマドリードの、かつて母娘が一緒に暮らしたアパート・ビルにまた戻ってくる決心をする。フリエタはアンティアに対して、彼女の知らないすべてを記した長い手紙を書き始める‥‥ 


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