Volver   ボルベール (帰郷)   (2006年12月)

ライムンダ (ペネロペ・クルス) は年頃の娘パウラと怠け者の夫のパコを養うために、いくつもの職を掛け持ちして働いていた。仕事をクビになって家にいるパコはパウラに迫り、逆に刺されて絶命してしまう。パコの死体の始末に困ったライムンダは、管理を任されていた近所のレストランを思いつく。一方、情緒不安定だったおばも死亡する。そのおばはどうやら死者と生者の区別もつかなくなっているようだった‥‥


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「オール・アバウト・マイ・マザー」に次いでペネロペ・クルスを起用したペドロ・アルモドヴァルの新作は、いつの間にやらクルスがティーンエイジャーの子持ちになっている。「マザー」ではセックスってなんですかとでもいうような顔して妊娠してしまった尼僧に扮していたクルスが、ここでは痩せてはいてもいかにもスペイン的な太っ腹の子持ちの母だ。


アルモドヴァル作品に出てくる登場人物は、一見、普通のどこにでもいそうな人々であるが、実はそうではない。常人の顔してやることはどこかずれており、そのちょっとしたずれが他人のずれと重なるとさらにそのずれが増していき、後戻りができない地点まであとは加速度的にずれていく。


特にアルモドヴァル作品では、男性よりも女性が話の中心であることが多いが、「ボルベール」はそれが極まった感がある。主要登場人物の中でセリフを与えられている男性は、基本的にクルス演じるライムンダの夫パコと、ライムンダが切り回すレストランにやってくるフイルム・クルーの代表の男くらいのもんで、しかもパコに至っては、最初の方で娘に欲情した挙げ句刺されて殺されてしまうという情けないことこの上ない役しか与えられていない。


話はこの後、いい加減パコにうんざりしていたライムンダがパコの死体をどこに隠すか奔走する様が描かれるのだが、ライムンダはそこで少しもパコが死んだことに対して後悔やら哀惜といった感情を見せることはない。彼女が考えることは、いかにして娘のパウラを咎められることなく法の手から逃れさせるかということのみであり、そこには彼女自身の罪の意識もパウラがしたことに対する叱責の意図も良心の呵責もない。


ああ、これはそういう話だったのか、なるほど、アルモドヴァルのことだ、そこにユーモアが絡まったりして、もしかしたら「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」のような話か、あるいはアルモドヴァル版「デスペラートな妻たち」かと思っていたのだが、話はそれからさらに二転三転する。まず第一に、数年前に火事で死亡した母の幽霊が登場してくる。しかもこの幽霊、幽霊というよりもなにやらかなり生身の人間くさい。その幽霊に、ライムンダの妹のソーレーはびっくりしながらも、いつの間にか馴染んでしまっている。さらにアグスチーナの母の死の話はいったいどう絡んでくるのか先がさっぱり読めず、やっぱりいかにもアルモドヴァルというタッチで話は進んでいく。


アルモドヴァル作品では、実は登場人物はかなり非情な、二進も三進もいかない、劣悪な、サイテーの状態に追い込まれることが多い。しかしそこにユーモアがまぶせられたり、あるいは登場人物がなにやらその状態を肯定するか、少なくともその状態を受け入れて生きていたりするので、そういうものかと思ってしまう。しかし、むろんそんなことはない。表向き笑ってはいても、抱えているものはかなり重い。しかしそのままでは前進できないので、ユーモアやその他の香辛料をまぶしつつ必死に前に足を踏み出しているのだ。


そのうちに、なにかの拍子か運命のいたずらかなんかでひょいと人生に陽が差すことがある。アルモドヴァルが最もアルモドヴァルらしい、あるいは最もうまいのが、そういう一瞬の人生のすばらしさ、あるいは生きていてよかったと思わせる瞬間を演出して提出することができることにある。「ボルベール」でも人は死ぬし病気にもなるし死体の始末はしなければならないし気がつけば犯罪の片棒担がされている人間はいるしと、結構皆ぎりぎりのところで生きており、一般的な観念から言えば出演者の多くは犯罪者だ (ライムンダだけでなく、ソーレーも非合法のヘア・サロンを経営している。) それなのに、それでもこの作品にあっと胸震える一瞬がそこここにあり、前向きの感動的な幕切れで終えるのは、まさしくアルモドヴァル・マジックである。アルモドヴァルの作品が正統、あるいは王道を行っていると言う気はさらさらないが、しかし、アルモドヴァルがアルモドヴァルしか可能でない唯一無二の映画を撮っているという事実は動かない。


とはいえ先週見た「ファウンテン」に引き続き、「ボルベール」も見る者を選ぶだろうということは言えるかもしれない。なんとなれば映画を見た後、私はバス・ルームに行っていた女房を待ってロビーで近日公開予定の映画のポスターとかをつらつら見ていたのだが、その私にいきなり話しかけてきた男がいた。実はこの男も「ボルベール」を見ていたのだが、途中で寝てしまったという。しかしそれまで見ていた話がどう終わったのかは気になる。それで私が「ボルベール」を見ていたのを知ってて、私にあらすじを乞うてきたのだ。


しかし、そいつに「ボルベール」の概要を説明してあげようとして、私は絶句してしまった。もちろんこういう、ポイントをかいつまんで話すというのはなかなか難しいことであり、それが母国語でないとなおさらそうなのだが、その上、それがアルモドヴァル作品であると、それがどんなに難しいことであるかは、それにトライしてみたことのある者でないとわからないだろう。試しに、アルモドヴァル作品のどれかを英語であらすじを説明してみようとしてみるといい。大抵の者は私のように絶句すると思う。要するに、アルモドヴァル作品は一筋縄では行かないのだ。


それでもあっちに行き、こっちに戻ったりしながら手振り身振りも交えて説明を試みたのだが、彼が私の言わんとするところを100%理解したかは疑問である。彼の顔を見ると、よけいにこんぐらがっただけかもしれないという忸怩たる思いは如何ともしがたかった。いずれにしても、私が感動してやっぱりアルモドヴァルってすげえなと思った「ボルベール」だって、寝るやつは寝る。因みにその日は12月だというのに記録的に暖かかった日々が去り、急激に冷え込んだ今年最初の冬らしい日で、確かに暖房の効いた劇場の中では眠りに誘われやすかったというのはあったろう。でも、あれを途中まで見て最後を見損ねたというのはいかにも惜しい。







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