The Worst Person in the World


わたしは最悪。  (2022年6月)

「わたしは最悪。」は、昨年暮れから今春にかけて、だいたい映画賞で外国語映画部門があると、常に「ドライブ・マイ・カー (Drive My Car)」とセットでノミネートされていた。そしてほぼ100%「ドライブ・マイ・カー」に受賞を持っていかれる運の悪い2番手で、そのことでも逆に印象に残って気にはなっていた。アカデミー賞の国際長編映画賞でも、案の定、受賞は「ドライブ・マイ・カー」に持っていかれていた。 

 

というわけだからというのでもないだろうが、「わたしは最悪。」の主人公ユリヤは、いつも何かしら自分の中で頂点を極めきれないでいる。幼い頃から成績もよくて何をやってもある程度の成績を収めるのだが、移り気でどれもあまり長続きしない。それは職業にも異性関係にも言え、今度こそと思える職に就いても、男性に巡り合っても、結局は飽きるかしてしまう。 

 

こういう女性は、先進国ならどこにでもいると思う。ある程度頭もいいものだから、そこそこ望むものが手に入る。そうすると今度は別のものが欲しくなる。そうやって結局、職業も異性関係も本当に満足するものには出会えないまま、ユリヤは気がつけば30代、その時々でボーイフレンドはおり、結婚も頭にちらつくが踏み切れない。そのまま一人で歳とっていくのか。それができるだけの職を手にしているのか。あれもこれも持っているが、逆に言うとあれもこれも中途半端で心は千千に乱れてしまう。 

 

正直言うと、別に主人公は女性でなくても、男性でも似たような境遇や立場やものの考え方をする者は結構いると思える。しかし女性の方がドラマになるように思えるのは、やはり女性の方が男性より抑えられた境遇にいるからか。これが男なら、ドラマにもなんにもならないのは確かだろう。 

 

そういう個人の視点からの話ではなく、私が「わたしは最悪。」を見てなるほどと思ったのは、結婚というシステムについてだ。これまで好き勝手に生きてきたユリヤだが、アクセル相手の結婚となると二の足を踏んでしまう。夫婦になり家庭を持つと、そこに義務や責任が生じて来るからだ。 

 

要するに結婚とはお互いに好きだからするのではなく、システム、制度だ。特に子供ができた場合、これまでのような自由な生活ができなくなるのはもちろんだ。その責任を引き受けることだ。アメリカに住んでいると、気持ちが離れるとすぐ離婚結婚を繰り返す輩が多いので、なんとなくこちらも好きじゃなくなったら別れればいい、みたいなものの考え方になりがちなのだが、好きだから結婚するのではなく、結婚するというのは家族になることであって、おそらくは将来的には子供も持つことが結婚の要諦だ。ユリヤはその決心がつかない。逆に言うと、結婚に付随する責任やらについてちゃんとわかっている。結婚する時に子供のこととか何も考えていなかった私自身は、一見無責任に見えるユリヤより大人じゃなかったんだなと思うのだった。 

 

個人的にユリヤのその後を想像するに、彼女はこのまま同じことを繰り返しながら歳とっていくんじゃないかという気がする。そして、別にそれでいいんじゃないかと思う。彼女なら、別に結婚しなくても一生食っていくことができるだけの技術、手に職をつけることができそうだ。それなら、特に伴侶や子供が欲しいわけでもないなら、一生独身で暮らしても構うまい。40代でその境地に達する可能性が高いと思うが、70代で後悔する可能性は‥‥あるだろうか。その時の「わたしは最悪。パート2」を見てみたい。 


 











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オスロ。頭はいいが奔放な女性ユリヤ (レナーテ・レインスヴェ) は、何をやっても、誰と付き合っても長続きしないまま、30代を迎える。とあるバーで知り合ったグラフィック・ノヴェル・アーティストのアクセル (アンデルシュ・ダニエルセン・リー) とは、波長が合ってマジで付き合うが、それでも結婚や子供のことが話題になると、段々冷めてしまう。そんな時、偶然目にしたウェディングのパーティをクラッシュして出会ったアイヴィン (ヘルベルト・ノルドルム) が、職場の書店にたまたま姿を現す。連絡をとるべきか迷うユリヤだったが‥‥ 


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