Drive My Car


ドライブ・マイ・カー  (2022年3月)

「ドライブ・マイ・カー」は、昨年末頃からアメリカでえらく話題になっていた。各地で色々な映画賞が発表されるのだが、もし外国語映画賞というカテゴリーがあればノミネートされているのは確実なだけでなく、私の知る限りすべて、100%受賞していた。圧倒的な勝率で、競馬なら馬券買っても配当はもしかして元返し以下になって損するだけかもというくらい、賞を獲りまくっていた。おかげでもちろん早く見たいと思っていた。 

 

「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹の短編を映像化したものだ。村上はアメリカでも人気があり、英語翻訳本も多数出ている。とはいえ私は近年は「IQ84」以来村上作品から遠去かっていたので、最初は「ドライブ・マイ・カー」が村上作品とは知らなかった。 

 

私はパンデミック以降、ほぼ毎朝マンハッタンの摩天楼が見える公園まで散歩するのを日課としているのだが、その一画に百葉箱くらいの大きさの、人々が自由に本を置いたり持ち帰ったりできる簡易コミュニティ本箱がある。ある時、その中に村上の「一人称単数」英訳版ペイパーバックの「First Person Singular」が置かれていたことがあった。一瞬、おっと思っていったんは家まで持ち帰ったのだが、原語で読めるものをわざわざ翻訳で読んでも、それこそ「ロスト・イン・トランスレーション」になってしまうなと思って、思い直してまた本箱に置き直してきた。「ドライブ・マイ・カー」は、その「一人称単数」の前の短編集「女のいない男たち (Men Without Women)」に収録されている。 

 

映画はもちろん日本語なのだが、主人公が劇作家で、チェーホフを複数の言語、さらには手話まで混じえて演出する。先頃見た「コーダ (CODA)」では、聾唖であることだけでも第3者とのコミュニケイションにあれだけ苦労していたというのに。 

 

さらに映画の中の舞台だけでなく映画そのものでもそうなのだが、どうやらキャラクターに意図的に感情を込めないでセリフを喋らせようとしているようで、言葉をできるだけ解体しながら、あるいは直接的なコミュニケイションの手段をとらずにどこまでコミュニケイションをとれるか、人はわかり合えるかが一つの主題であるようだ。 

 

その作品を英語字幕付きで見ると、それこそロスト・イン・トランスレーションの部分が増える。例えば、主人公の家福という名前を漢字の意味を含めて外国語に翻訳することは難しい。というか、映画の字幕では、そこまで突っ込んで翻訳することは不可能だ。作品中で家福と妻の音の名前について言及するシーンがあるが、字幕ではその部分はほとんど突っ込まずにスルーしていた。ここでもまた、コミュニケイションの一部がどこかにこぼれ落ちていく。 

 

映画の最後では、みさきが韓国にいるが、セリフや字幕でその説明は一切ない。いきなり登場人物が全員それまでしていなかったマスクをしているので、コロナウイルスが蔓延した数か月か数年後だろうというのはわかる。しかし、賭けてもいいが、日本人や韓国人、その他のアジア系を除く大半の外国人は、たぶん舞台が、国が変わったことに気づかない。彼らは話される言語やハングル文字や仮名、漢字を区別できないのだ。たぶん一部の人だけが、これまで執拗に左側通行で走っていたクルマが突然右側通行になったことに気づく。これもどこまで発信されている情報から必要なことを掬い上げることができるかというコミュニケイションの一部と言えるか。 

 

結局、本質は様々な障害を超えてどのようにコミュニケイションがとれるのかではなく、完全なコミュニケイションなぞないという自覚を持った上で、どのようにコミュニケイションをとるのかという問題になるかと思う。映画がこれだけ各地で映画賞獲りまくっているのをみると、伝えたいことは伝わっているのだろうなと思われる。 

 

ところで、映画の裏主人公であるクルマのSAABだが、かなり前、私が懇意にしていた日系のガレージに、色は違うがほとんど同じ型の中古のSAABが、かなり安い値段で置かれていたことがあった。私はほとんどクルマを趣味としていないので、車種ではなく値段から興味を持ってどんなクルマか訊いてみたところ、ヨーロッパ車は金と時間がある人にはいい、みたいな奥歯にものが挟まったみたいな返事をもらって、ああ、これは私には無理なクルマなんだなと思ったことがある。そういうクルマだから、乗る人を選んでそこにわりと長い間置かれていたのだろう。今回「ドライブ・マイ・カー」を見ながらそのことを納得した。 

 











< previous                                      HOME

家福 (西島秀俊) は舞台演出家で、彼の演出は世界中から集められた俳優がそれぞれの言語を喋りながら進行するという独自の体裁を持っていた。妻の音 (霧島れいか) は脚本家だが、ある時、家福は音が他の男と自宅でセックスしている現場を目撃する。それでも妻を愛している家福は、見なかった振りをして日常生活を続けていくが、ある日、音は自宅で倒れ、帰らぬ人となる。2年後、広島での芸術祭でチェーホフを演出することになった家福は広島に長期滞在する。本当なら自分でクルマを運転して滞在先から通勤したいところだったが、主催者側の要望で専属のドライヴァー、みさき (三浦透子) がつけられる。みさきのドライヴィングは文句のつけようがないもので、いつしか家福はみさきを無条件に信頼するようになっていく。一方、舞台のオーディションに現れたのは、かつて家福が音とセックスしていたのを目撃した相手の高槻 (岡田将生) だった‥‥ 


___________________________________________________________

 
inserted by FC2 system