アメリカにおいて、ケーキは必ずしも味が優先されるわけではない。ウェディング・ケーキやバースデイ・ケーキ等、食材である前に飾りものであることが第一の存在理由であるケーキというデザートに関しては、何よりも優先されるのはまず見かけであって、視覚的印象がその存在意義を決する。
さらにアメリカの場合、パイ投げという、食材に対する最大の冒涜が文化として定着しているお国柄でもある。たぶんアメリカ以外のすべての国は、飢饉や干ばつ、戦争という食糧難の時代を一再ならず経験しているはずであり、その場合、やはり食材を粗末に扱うことに対してなんらかの罪悪感を伴うだろう。アメリカだけが、食物を投げ合って無駄にしても平気なのだ。
食べものを粗末にしてはいけないと躾けられて育った世代としては、どうもパイ投げにだけは抵抗を覚えずにはいられないのだが、一方でそういう常識ではできないことを平気でするそのメンタリティに、ある種の羨ましさを感じることがあるのも、また事実だ。クリームがたっぷり乗ったパイ皿を後ろから目指す相手の顔に叩きつけてみたりするのは楽しそうなのは確かだし、シャンパンやビールをかけ合うってのも、まあ、たまにおめでたい席とかなら許されるかなと思う。
そしてそういうお国柄のアメリカにおいて、食材、端的にケーキを、ほとんど食べるものというよりも、装飾、もしくは工作、アートとして製作するというジャンルが発達した。食べものなのに味は関係ないという発想は、アメリカ以外のどの国からも起こってこないだろう。そしてこの小ブームに注目したTV番組が、それまでは一部の好事家たちのものだったケーキ彫刻を、全国的なブームに押し上げた。
この系統の番組の端緒は、たぶんフード・ネットワークが放送した「エース・オブ・ケーキス (Ace of Cakes)」だろう。そしてTLCの「ケーキ・ボス (Cake Boss)」がそのブームを定着させたと言える。面白いのは「エース・オブ・ケーキス」のケーキ職人ダフ・ゴールドマン、「ケーキ・ボス」のバディ・ヴァラストロがそれぞれ揃って一見むくつけき中年男性であることで、それがなぜだかよりにもよってケーキ職人だ。二人共食材をいじっているよりは、ガレージでクルマをチューン・アップしている方がよほど似合っている。つまりアメリカにおいては、ケーキはペイストリー・シェフではなく、機械いじりや工作が得意な男の職人が業界を牽引している。
そして今回「テキサス・ケーキ・ハウス」に登場するナタリー・サイドサーフは、ゴールドマン、ヴァラストロに続く第2世代のケーキ職人の登場と言える。少なくともゴールドマンやヴァラストロは本職もケーキ職人だ。彼らの場合、まず食べるものとしてのケーキがあって、それに過剰な装飾や創意工夫を加えることで新たな世界を構築していった。
ところがサイドサーフの場合、元々はアーティストであって、その材料がたまたま食材であったに過ぎない。アート作品がケーキという食べられるものでもあり、さらにでき上がったものがスーパーリアリズムという本物そっくりの度肝を抜くものであったことから、一気に注目を集めた。
彼女が最初に発表した「ウィリー・ネルソン」は、もちろんカントリー・シンガーのウィリー・ネルソンのことだ。どこから見てもネルソンそのものの頭像が、まさかケーキだとは誰も思うまいというリアリズムで製作されている。ケーキである証拠に頭を切り開くと、ちゃんと中はレイヤーになったスポンジとクリームが詰まっている。しかしそれ以外は写真さながらのいかにもネルソンなのだ。このインパクトは強烈で、「ウィリー・ネルソン」は見事テキサスのケーキ・コンテストで優勝した。それにしても頭にナイフを入れられて皿にとられて食べられるネルソンの気持ちはいかばかりか。
そしてサイドサーフの名を一躍世に定着せしめたのが、「死が二人を分かつまで」と題された男女二人の生首だ。血塗れの本当の死体にしか見えない頭がテーブルの上に乗っている。これにナイフとフォークを突き刺して食べろってか。悪趣味という範疇を通り越して、これくらいやられると感心せざるを得ない。