Roma


ローマ  (2018年11月)

年末に入り、オスカー最有力候補と噂されているのが、アルフォンソ・キュアロンの「ローマ」だ。それはいいが、この作品、ストリーミング・サーヴィスのNetflixの製作配給で、基本的にストリーミング視聴を前提にしている。とはいえ製作自体は通常の映画製作と同じ工程を踏む、事実上劇場公開用の映画となんら変わるところはない。 

 

一方、アカデミー賞は劇場公開を第一前提としている賞なので、Netflix作品ではあるが、今回はオスカー欲しさもあって、まずNetflixでの提供より先に、劇場で公開された。 

 

その「ローマ」、実はモノクロ作品だ。いくら近年のストリーミング配信やTV放送の技術が上がり、TVも大型化して細部までよく見えるようになっているとはいっても、果たしてうちの42型のTVでは、HDTVといえどもどこまで細部が再現されるかは微妙なところで、ちょっと心もとない。せっかく意図的に黒くした黒い部分の表情が見えなくては、モノクロで撮った意味がない。 

 

ということで、たとえ劇場公開されるとはいっても、オスカー獲得のために劇場で最初に公開されたという事実が欲しいだけで、来週には劇場から消えている可能性が高い。今スクリーンで見ないでいつ見るんだ、今でしょ、というわけで、慌てて女房共々劇場に足を運ぶ。 

 

ところで「ローマ」は、その舞台がいったいどこなのか、一見しただけでは判然としない。メキシコ人のキュアロンだが、なぜタイトルが「ローマ」なんだと思うが、わざわざそこまで事前の情報を仕入れなくとも見ればわかるだろうと、それ以上は深く詮索しなかった。 

 

そしたら、正直に告白してしまうが、作品を見た後でも、実は舞台がどこか釈然としなかった。まず第一に、こちらは「ローマ」というタイトルに縛られている。ローマっていったら、イタリアの首都ローマ以外思い浮かばない。フェデリコ・フェリーニの「ローマ (Roma)」しか思いつかない。そう思い込んで見ているので、基本何を見てもローマかと思ってしまう。 

 

主人公が仕える家庭は白人一家で、ヨーロッパの白人にしか見えない。家も暮らし方もいかにもヨーロッパ風だ。海に行くとその風景は、いかにもフェリーニの映画でマルチェロ・マストロヤンニが歩いていると似合いそうな海沿いの並木で、要するにやっぱりどこか確信が持てない。さらにイタリアのローマと確信して納得している女房の存在が、さらにイタリアのローマに振り子の針を揺らす。 

 

唯一、主人公がいかにも中南米の先住民族に見えないこともないが、それだってこちらの思い込みが、ジプシーだとこういう顔立ちがいそうだなと思わせてしまう。メキシコで使われるスペイン語とイタリア語の違いもわからないし、主人公の使う先住民族の言葉は、さらにわからない。主人公やボーイフレンドがデートする場所は、色の濃い人たちが多いが、都市や内陸部に行くと、ジプシーが定着している場所もあるんだろうと勝手に思い込んでしまう。 

 

そう思いながらもその日はそれ以上深くは突っ込まず、夜、ベッドに入って、うつらうつらしている矢先、そういえば英語ではローマはRomeであって、Romaではないと思い出す。ということはやはり、今回のタイトルも現地読みでイタリアのローマを意味しているのではないか、それともしてないのか‥‥と考えながら、寝入ってしまった。 

 

タイトルがキュアロンの育ったメキシコ・シティのローマ地区を意味していると知ったのは、さすがにこれ以上一人で考えていても埒が明かんと思って、本気で調べてからだ。作品内では、メキシコでは大きな事件だったらしいデモや発砲事件が描かれるのだが、特に1970年代のメキシコの情勢に詳しいわけでもない他国人の我々にとっては単に知らない事件で、それがイメージとして現れても、メキシコと即座には結びつかない。 

 

考えたら「ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ (Sicario: Day of the Soldado)」で女の子を拉致するメキシコの道路や風景がいかにもあんな感じだったと後から気づいたが、それだってイタリアのローマもあんな感じだと誰かに強く言われたら、こちらはローマにもメキシコにも行った経験がないので、そういうものかと納得しそうだ。キュアロンの子供時代を回想した作品ということくらいは知っていたが、別にイタリアで子供時代を送っていたっておかしくないし。だったら最初からそう言ってくれればよかったのに。せめてタイトルは、ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス (Pars, Texas)」みたいに、「ローマ、メキシコ」くらいにしてもらえていたらと思う。 

 

などと一人で勝手に頭を悩ませてしまった「ローマ」だが、だからといってそういう誤解や混乱が作品鑑賞の妨げになるかというと、特にそんなこともない。場所や時代を事前に正確に把握していたらそれにこしたことはないだろうが、だからといって楽しめないわけではないし、特に私の場合、そういう推理や誤解によって意図せしめぬ楽しさを捏造して勝手に悦に入っていたりする。作り手は苦笑するか怒るかは知らんが、この手の独断的な楽しさは一度経験すると病みつきになるので止められない。 

 

そしてもう一度言ってしまうが、「ローマ」はやはりフェリーニの作品を想起させる。それも「ローマ」ではなく、もっと初期の、それこそこちらもモノクロで撮られた、「道 (La Strada)」とか、「カビリアの夜 (Nights of Cabiria)」を強く想起させる。「ローマ」における主人公クレオを演じるヤリッツァ・アパリシオの無垢さ加減が、フェリーニ作品のジュリエッタ・マシーナを連想させると言っても、否定する者はあまりいないだろう。やっぱりローマなのだ。 

 

「ローマ」はまた、フェリーニ作品を含め往時のモノクロ作品に多く共通する、パンやティルト、レールを敷いた移動撮影がふんだんにある。今ならレールを敷くなんて面倒なことをせず、ステディカムで手持ちで撮るだろうと思えるものを、わざわざレールを敷いて移動撮影する。そのため横一線にしか動きがなくなり、縦横無尽には動けなくなるが、それで絵が二次元的、単調になるかというと、そういうこともない。やはりカメラが動いているという効果は大きい。 

 

そしてやっぱり、レール移動の撮影がもたらす最大の効果は、最近の作品ではあまり見られないことによるノスタルジーにあるのではという気がする。基本一人で撮影するステディカム撮影と異なり、レール上の移動撮影は、何人かがレール上のカメラを押さなければならない。そういう、大勢で力を合わせて撮っているという雰囲気が濃厚にする。70年代は、移動撮影はそうやって撮るしかなかった。 

 

そしてその70年代も変わって行く。デモや暴動や改革が起こり、平凡に見えたクレオの周りの世界も変わって行く。子供ができ、ボーイフレンドが去り、一家の主人も出て行く。キャデラックのような大型車が、新しい型の中型の乗りやすそうなクルマに買い換えられる。しかしそれでは、後部座席に子どもたち3人とクレオは一緒に乗れないだろう。子どもたちは段々大きくなるからなおさらだ。もう一緒に別荘や海に行くこともなくなるだろう。そうやってたぶん、段々クレオがいる場所はなくなっていく。この世に何一つ変わらないものはなく、そしてクレオはその変わり続ける現世を変わらない態度で受け止める。 

 











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1970年代、メキシコ・シティ。先住民族の血を引くクレオ (ヤリッツァ・アパリシオ) は医師の白人一家の家に住み込みで女中として働いていた。口うるさい奥さんと育ち盛りでやんちゃな子供たちの面倒を見るのは決して楽とは言えず、贅沢もできなかったが、それでもクレオにあまり不満はなかった。しかしボーイフレンドのホーゲイとの間に子供ができてしまったクレオは、それを相談した後、ホーゲイは連絡を絶ってしまう。休みをもらってホーゲイの行方を突き止めて会いに行くクレオは、ホーゲイが自分と一緒になる気はないことを知る‥‥ 


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