Birdman: or (The Unexpected Virtue of Ignorance)


バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)  (2014年12月)

前作「ビューティフル (Biutiful)」をアレハンドロ・イニャリトゥ作品とは気づかず、一瞬ちらとだけ見た予告編で、誰かがハビエル・バルデムを起用してヒューマン・ドラマを撮ったようだなくらいにしか思わず、それと知った時には既に近くの劇場からは消えていた。さすがに余程のことがない限り、休みの日にわざわざ100マイル先の隣りの州境までクルマを飛ばして見に行こうという気にまではなれない。 

 

というわけで久しぶりのイニャリトゥ作品、またまた何か彼らしいとんでもないことをしてくれているようで、予告編では主人公に扮するマイケル・キートンが羽生やして空飛んで行く。新種のスーパーヒーロー成り損ねものか、とそれはそれでとにかく面白そうだ。 

 

オープニング・シーンは宙に浮かんで瞑想している主人公リガンをとらえるショットで、どうやらリガンは映画でスーパーヒーローのバードマンを演じているというだけでなく、本当にスーパーパワーを持ったスーパーヒーローでもあるようだ。しかし昨今スーパーヒーローが生きにくいのはバットマンを筆頭とする数多の映画が証明している通りで、それはバードマンとて例外ではない。 

 

リガンは続編出演を断り、俳優として生きていく決心をする。ブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること (What We Talk About When We Talk About Love)」を演出主演することを決めるが、しかしそれはリガンが思ったほど簡単な所業ではなく、次から次へと問題が持ち上がる。果たして舞台は無事初日を迎えることができるのだろうが‥‥ 

 

オープニングの宙に浮かぶリガンというのも人を食ったショットなのだが、さらに驚くのは実はこの映画、ほとんどが1シーン1ショットで撮られているのだ。ただし1シーン1ショットといっても途中で一晩だとかの時間の経過が挟まる、早送り効果のあるそういうショットも1シーン1ショットというかは微妙なところであり、明らかにここは実はカット変わっているが、一見1シーン1ショットで撮っている風を装っているというところもあるが、それでも映像自体は全部繋がっている。 

 

建て前上1シーン1ショットが崩れるのは、映画もほとんどエンディングに差しかかる、たぶん1時間50分くらいが経過した時点で、どうせなら最後まで1シーン1ショットで行けばいいのにと思うが、入院してある何かがたぶん吹っ切れたリガンはそれまでのリガンとは別人であるといえ、その辺りを意図しているのか もしれない。すべてが過去を引きずっていた昨日までとはおさらばして、これからは新しい自分が始まるのだ。 

 

まあそういう考え方もできるかと思うのだが、一方「バードマン」は、1シーン1ショットという作劇術、方法論から見た場合、1シーン1ショットが通常持つ緊張感はあまりない。これはあまりにも長く1シーン1ショットが続いてしまうため、1シーン1ショットが強要する観客の集中力が続かないということではないように見受けられる。これは同様にブロードウェイ初日までの舞台裏を描いた、ジョン・カサヴェテスの「オープニング・ナイト (Opening Night)」を思い出せば明らかだろう。 

 

これはたぶん、生きることが演じることである女性を描いた作品「オープニング・ナイト」と、映画以外の演じる場を求めてブロードウェイに来たものの、実は役者ではない、単に中年男のミドル・エイジ・ クライシスを描いている「バードマン」との差という気がする。別に人は必ずしも役者である必要はないが、失敗は許されない一発勝負の舞台を描く1シーン1 ショットの作品が、こんなふうにあまり緊張感を感じさせないのは、1シーン1ショットという技術に頼りすぎているからではないかという気がどうしてもして しまう。 

 

まあ、そんな風にちょっと辛めに見てしまうのは、特に1シーン1ショットなんか使わなくてもあれだけスクリーンに力漲らせることのできるイニャリトゥが、わざわざ1シーン1ショット使ってこれかとどうしても思ってしまうからだ。1シーン1ショットは1シーンを1ショットで撮るからスクリーンに緊張感が走るの であって、1シーン1ショットで撮っているという見せかけだけでは、そのテクニックに感心しても、1シーン1ショットが本来持っている緊張感は再現できない。それは撮っている者、映っている俳優自体がわかりきっていることだろうから、そのことがスクリーンに露呈してしまうのだと思う。 

 

近年、同様に全編1シーン1ショット (もどき) の試みに挑戦した作品として、「サイレント・ハウス (Silent House)」がある。ホラーの「サイレント・ハウス」は、1シーン1ショットという方法論と合致しているのではという気もしないでもなかったが、でき上がった作品は、特に1シーン1ショットという撮り方が作品に貢献しているともしていないとも言い難かった。 

 

これが1シーン1ショットで撮るミュージック・ヴィデオだったりすると、それだけで充分楽しめたりするのは、3、4分で終わってしまうミュージック・ヴィデオは、実際に1シーン1ショットで撮っているという気合や緊張感がちゃんと見る者に伝わってくるからだろう。こないだ、深夜TVでVH1だかFuseだかの音楽専門チャンネルを流していて、たまたま流れていたカイザの「ハイダウェイ (Hidaway)」をちょっと見た瞬間から目が離せなくなった。他にもOK Goの作品やファイストの「1234」等、ミュージック・ヴィデオの1シーン1ショットの方が、テンションが高いように感じる。 

 

一方、例えばカイリー・ミノーグの「カム・イントゥ・マイ・ワールド (Come into My World)」やリンキン・パークの「ブリード・イット・アウト (Bleed It Out)」のように、最初はシンプルな1シーン1ショットであるように見えて、段々、え、なんでそうなるとという実はかなり手の入ったCGを駆使した、1シーン1ショットとは到底言えないヴィデオである場合もある。 

 

要するにやりたいことは1シーン1ショットのテンションではなく、1シーン1ショットというテクニックや錯覚を駆使した演出だ。1シーン1ショットというスタイルと思い込んだ視聴者の裏をかくというか、虚を突いてあっと言わせる。だって1シーン1ショットで逆回しが入ったり同一人物が二人も三人も画面に同時に入ってこれるわけがない。 

 

つまりイニャリトゥがやりたかったことは、かなりこちらの後者の方に近いのではないか。もし本当に1シーン1ショットをやりたかったとしたら、小手先の技に頼っても2時間を1シーン1ショットで撮ったように見せかけて、最後の最後でそれを解除してわざわざテンションを解くようなことはしないような気がする。あるいは、もしかしたらイニャリトゥもリガン同様迷っていたのだろうか。 











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リガン・トムソン (マイケル・キートン) はかつてスーパーヒーローのバードマン役として一世を風靡した役者だったが、今ではバーンアウトし、バードマンの新作出演を却下し、役者兼演出家としてブロードウェイでデビューするための準備に専念していた。しかしリハーサル中の出演者の一人の頭の上に照明が落下、急遽代役が必要になる。出演者の一人レスリー (ナオミ・ワッツ) の友人で著名な俳優のマイク (エドワード・ノートン) がちょうど身体が空いていて、代わりの出演を快諾する。ほっとしたのも束の間、仕切りたがりのマイクはあれこれと口を挟んでリガンを悩まし、果てはリガンの娘サム (エマ・ストーン) といい仲になってしまう。他にもあれやこれやと問題が後から後から持ち上がって後を絶たない。果たして舞台は無事初日に上演できるのか‥‥ 


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