Belfast


ベルファスト  (2022年7月)

私は今、毎朝近所の散歩を日課としているが、お決まりのコースの一部に下り坂と上り階段というのがある。ゆっくりと歩いて下り、階段を2段飛ばしで駆け上って、これで今日のカーディオは終わり、と自分を納得させる。 

 

下りは緩やかな坂の途中にヘアピン・カーブがあるのだが、階段をわざわざ迂回するようにしてある道なので、どちらかというと人の行き来は少ない。日が暮れたら正直言って頼まれても歩きたかない道なのだが、まあ日中は安全と高を括っている。 

 

そこでこないだ、ヘアピンを曲がったら人が倒れていた。その前で中年の黒人女性と側の車道を走っていたクルマのドライヴァーが何やら話していた。倒れているのは50代くらいのガタイのよさそうな白人かラテン系の中年のおっさんで、いったい何がどうしたんだと仰天していると、黒人女性が、既にポリスには連絡したんだがまだ来ないと言う。 

 

現在アメリカの都市部ではホームレスの増加が問題になっていて、路上で寝ているホームレスがよくいるのだが、今、目の前に倒れているおっさんは明らかにそれとは様子が違う。歩道を塞ぐように横に目一杯に倒れており、これは明らかに寝ているのではない。真上を向いて薄目でほとんど動きがなく、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。 

 

さらに、そばにはおっさんが乗ってきたと思われるモーターサイクルが停められており、そのシートの下部のポケット部分が荒らされている。特にここんとこ、ニューヨークではドライヴ-バイ・アタックという強盗が問題になっている。クルマやモーターサイクルに乗ったギャングが、チャンスと見ると歩道を歩いている者に襲いかかって金品を強奪するという手口で、かなり荒っぽく、刃物や武器で刺したり殴ったりと手加減しないので、大怪我をする者が続出している。その被害者である可能性もある。 

 

また、このおっさんはいったいいつからそこに倒れていたのかという疑問もある。あれは倒れてすぐ私が通りがかったという感じではまったくなかった。黒人おばさんはちょっと前にポリスに電話したと言っていたが、要するにその前に既にそこに倒れていたのだろう。しかし、いつから? 夏のこととて既に日は昇って久しく、私と黒人おばさん以外にも、ここを通った者はそこそこいると思われる。その時、おっさんが既に倒れていたとしたら、誰もポリスに通報しなかったのだろうか。それとも、やはり今おっさんは倒れたばかりなのだろうか。 

 

ここでシャーロック・ホームズなら、見えているものからおっさんの素性から倒れている理由まで推理できそうなものだが、そういう能力のない私は、おばさんたちに後を任せ、その場を離れたのだった。いずれにしても、こういうことはこれまでなかった。社会が変質してきているという感じが濃厚にする。 

 

「ベルファスト」の舞台となった1969年のベルファストも治安がよかったわけではないだろうが、しかし、今現在のアメリカも結構どっこいどっこいのような気がする。昨年辺りくらいまではコロナウイルスのせいでアジア系に対する蔑視や風当たりが強いことが問題になっていたが、現在では人種に関係なく、満遍なく差別や暴力が蔓延し始めているという印象がある。どっちにしたっていい風潮ではない。要するにやはり人は、鬱屈が溜まると暴力や差別で捌け口を探すのだ。人類は今後も滅亡せず文明を続けていけるかの瀬戸際にいる気がする。 

 

その点、もしかしたら英国本土やアメリカ、カナダ、オーストラリアへの移住という逃げ道のあった当時のアイルランドは、もしかしたら現在の人類ほど切羽詰まってはいなかったのではないかという気はしないでもない。現在、アメリカですら、ニューヨークやLAのような都会で苦しんでいる人々が、そこから逃れようとアメリカ南部や内陸部に移動したら、待っているのはさらにひどい差別意識という可能性は非常に高い。「ベルファスト」の登場人物のような、いざとなれば国外脱出すればいいという最後の手段があるという考えは、精神安定やストレス回避に有効に機能したと思える。 

 

一方、どんなに社会に問題があっても、生まれ育った土地から離れ難いという人たちも当然いる。基本的に「ベルファスト」の主人公一家は、ロンドンへの出稼ぎが多く、家にいないことの方が多い父を除いてその傾向が強い。 

 

映画の中で、カトリーヌ・バルフ演じる母が、幼い時からずっとここで育って、通りに住んでいる人を皆知っているここから離れるのは嫌だ、みたいなことを言うシーンがあるのだが、私はそのシーンで、いや、だからこそそんなところに住みたくないんだ、と思った。あとで一緒に見ていた女房も、まったく同じことを感じたと言っていた。家でだらしなく寛いでいる時に、お隣りさんから、ちょっと醤油切らしたから貸してくれない、なんて訪問を受けるのは、真っ平御免だ。 

 

向こう三軒両隣りが顔馴染みであることの利点は確かにあるだろう。特に防犯という点では、大きな効果があると思う。しかしその効果があるのはせいぜいそのワン・ブロックくらいで、実際、映画でもちょっと離れた場所のグローサリー・ストアで、バディを含めた人々が暴動に紛れて商品をくすねていたではないか。コミュニティの安全性とは、せいぜいそのくらいのものでしかない。 

 

それにしてもアイルランドはよくよく世情が乱れたりする。国もあまり裕福ではなく、この時代のアイルランドを描いた作品には、「ブルックリン (Brooklyn)」や「マグダレンの祈り (The Magdalene Sisters)」等があるが、一般民衆はわりと困窮しているという印象が強い。それでも、「ベルファスト」も含めて、そういう場所や時代を描いても、その時代のアイルランドを経験した者は、何やら懐かしく、肯定的に昔を思い出すようなのだ。そういう場所だったからこそ、皆それぞれに独自の思い入れがあるんだろう。 

 











< previous                                      HOME

1969年、内乱で世情の揺れるベルファスト。9歳のバディは、ほとんどがカソリックのアイルランドで、プロテスタント一家に育つ。父 (ジェイミー・ドーマン) はよくロンドンに出稼ぎに行くため家にいない日も多かったが、祖父 (キアラン・ハインズ)、祖母 (ジュディ・デンチ)、兄、そして優しい母 (カトリーナ・バルフ) に囲まれ、さらには学校で意中の子もいて、いかにも子供らしく日に日に成長していた。しかし社会の騒乱はバディの周りにも飛び火してくる。父はここには未来がないと外国に移住を希望するが、祖父、祖母、そして母は、生まれ育って愛着のあるベルファストを別れ難く思っていた‥‥ 


___________________________________________________________

 
inserted by FC2 system