Where the Wild Things Are


かいじゅうたちのいるところ  (2009年11月)

マックスは母親があまり自分のことを構ってくれず、姉もボーイフレンドたちとばかり遊んで自分と遊んでくれないことが気に入らない。ある時母親と喧嘩して発作的に家を飛び出したマックスは、そのままボートをこぎ出し海に出る。マックスがたどり着いたのは、かいじゅうたちのいる島だった。マッスクはそこでかいじゅうたちの王様として君臨することになるが‥‥


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「かいじゅたちのいるところ」は、モーリス・センダック著のクラシック絵本の実写映像化だ。実はこの作品、私はタイトルと絵柄だけはいたるところで目にする機会があるので知っていたが、実際に読んだことはない。子供向け絵本とはいっても、よくできた絵本は大人が見たり読んだりしたって楽しいものだったりするし、そうやって子供時代には読んでいなかった名作を大人になってから読んだものもある。しかし、その中にはクラシックと誉れ高い「かいじゅうたちのいるところ」は入っていなかった。


これには内心忸怩たるものを感じるのだが、アメリカ、およびヨーロッパや世界各国の特に子供向け名作と言われるものには、読み逃している作品が結構多い。「かいじゅうたちのいるところ」もそうで、日本でも知られている作品のようなのに、日本にいた時の私はこの作品のことをまったく知らなかった。「チャーリーとチョコレート工場 (Charlie and the Chocolate Factory)」なら読んでいるんだが、「かいじゅうたちのいるところ」は読んでいない。そういう癖のあるテイストで本を読んでいたのだ。これは本だろうが映画だろうが今でもそうだ。


だから基本的に私がモーリス・センダックという名前、およびその代表作である「かいじゅうたちのいるところ」を知ったのは、渡米後のことだ。乱暴者のかいじゅうと疎外感を味わっている少年との心の交流を描く、しかし心の暖まるというよりは実際にヴァイオレントな印象を与える作品で、そのため一時的にせよ子供に悪影響を与えるとして非難されたこともあったという。


いくら渡米前は知らなかったとはいえども、渡米後は読むチャンスはいくらでもあった。本当に、何度も色んなところで目にした。手にとったこともある。そんなに厚い本でもない。絵柄がアピールしなかったというわけでもない。面白そうだな、今度読もうと思ったのも二度三度じゃない。それなのに読んでないのは、そういう巡り合わせだったと言うしかない。いつの間にやらかいじゅうたちから本当に離れた世界に住んでいたようだ。結局原作を読む前にその映像化の方を先に見ることになってしまった。


通常ハリウッド映画の公開に際しては、公開直前にTVで派手に宣伝が行われるのだが、当然「かいじゅうたちのいるところ」も例外ではない。特にこの作品に関しては、TV番宣に使われる予告編の音楽が印象的で、ナー、ナー、ナーナーナーナーという単純な旋律が頭に残って離れない。ちょっとした拍子にメロディが口をついて出てくる。おかげで、まあ、見ようとは思っていたけれども、内容を知っているわけではないため特に入れ込んでいたわけでもないのに、うちの女房に、はまっているねと言われてしまった。いや、だから別に、特に入れ込んでいるわけではなく、あのメロディが頭から離れないだけなのだが。まんまと宣伝に乗せられてしまったというのは言えるかもしれない。


「かいじゅうたちのいるところ」は、疎外感を味わっている少年が家を飛び出してたどり着いた先で出合うかいじゅうたちとの交流を描く物語だ。誰でも子供の自分、自分が何か特に悪いことをしたわけでもないのに、親兄弟からいじめられたり遊んでくれなかったりおもちゃをとり上げられたり、あるいはほとんど理不尽な叱責を食らったりした経験があるだろう。そういう時、ちくしょう、家出してやる、あんたなんかもう親でも兄弟でもなんでもないと思ったことが一度もないという者はまずいないと思う。


最初は姉のボーイフレンドたちにかまくらを壊され、次には母の新しいボーイフレンドも気に入らないマックスは、居場所をなくした気がして家を飛び出す。ボートをこぎ出してたどり着いた島には、乱暴者のキャロルを筆頭とするかいじゅうたちがいた。想像力豊かなマックスは前からお話を作って母に聞かせたりしていた。家出同然に家を飛び出したマックスの前に現れたかいじゅうたちは、多かれ少なかれ全員マックスの分身だ。 特に乱暴者で、仲間からも持て余され気味のキャロルが、心がささくれ立っているマックスの投影であることは言うまでもない。


キャロルの声の吹き替えを担当しているのが、「ザ・ソプラノズ (The Sopranos)」のジェイムズ・ガンドルフィーニで、もう、自分中心にいじけ気味のキャラクターというのが声にはまった適役。図体がでかく、乱暴だが実は小心者という感じが見事に出ている。キャロルをたしなめる島でのかいじゅうたちの母親的存在なのがKWで、吹き替えているのは「シックス・フィート・アンダー (Six Feet Under)」のローレン・アンブローズ。一時期HBOを代表した2大ドラマの主人公的役どころの二人がここでもほとんど作品を支えている。他にもポール・ダノ、クリス・クーパー、キャサリン・オヘア、フォレスト・ウィテカー、マイケル・ベリーJr.なんて、もう、曲者曲者曲者という曲者揃いで、この曲者さ加減がたまらない。


実写部分でも、マックスの母を演じるのはキャサリン・キーナー、そのボーイフレンドをマーク・ラファロという、ごくごく身近にどこにでもいそうな市井の役をやらせたら右に出る者のないアメリカの2大普通系役者が顔を揃える。これらの超曲者揃いに囲まれて臆しない主人公マックスを演じるマックス・レコーズの将来恐るべし。


演出はスパイク・ジョーンズで、クラシック児童文学絵本の映像化というよりも、かなりの部分自分の少年時代の記憶の再構成という感じがする。特に前半のマックスのすね加減が、いかにも自分自身の体験談みたいな感じが濃厚にする。かくいう私もマックスのように少年の時に、今ではその理由も思い出せないが親に叱られ、家を出たことがある。マックスの場合は自発的に家を飛び出したのだが、私の場合はおまえなんかもううちの子供じゃない、出て行けと、家から叩き出されたのが大きな違いではあるが。今そんなことをやる親は少なくともアメリカでは児童虐待で手が後ろに回ることは確実だが、私がガキの頃には、子供はかなりの確率でそんな感じで叱られていた。


それで私は子供心にもう家には帰れないんだと思って、一人、昼のうちに遊び場で友人と一緒に段ボール箱で作った基地に行って、そこで夜を明かそうとした。少なくともそこでなら夜露はしのげるだろう (なんか「20世紀少年」みたいだ。ほとんど同じ時代だからそれも当然か。) ガキだから本当にその段ボールに囲まれた中で眠ってしまったのだが、翌朝目覚めると、家の布団の中で寝ていた。私が怒られてても謝りもせずにそのままどこかに行ってしまったので、慌てた親がその後をずっと追いかけてきていたらしい。外で簡単に寝入ってしまった私を抱えて家に連れ戻して寝かせたのだ。私はそんなことも何も気づかず、能天気に外で寝て、なんとか生きていけると思っていたのだ。今ならアメリカでなくとも死んでいるか監禁されて虐待されているかのどちらかだろう。今考えるととても怖い。


いずれにしてもこんなことがあってから、うちの親はなんかの理由で私を叱責することがあっても、二度と出て行けとは言わなくなった。結局私の家出? は自分でも知らないうちに一晩で終わってしまった。マックスの家出もそうだが、ガキの家出というのは、自分で意識していなくても、帰ることが前提なのだと思う。親を困らせてやりたいだけなのだ。迷いが晴れたら、当然またうちに帰る。マックスもそうだ。



(注) 以下、作品のエンディングに触れてます。


作品は最後、かいじゅうたちのいるところをあとにしたマックスが、母の待つ家に帰るところで終わる。ところでマックスとかいじゅうたちはそれなりに名残りを惜しむのだが、それまでのマックスとかいじゅうたちの繋がりを考えると、実はこの別れはかなり唐突という印象を受ける。マックスは、かいじゅうたち、特にキャロルと強い結びつきを得たように見えるのだが、家に帰ることを決めたマックスの心には、既にかいじゅうたちの住む場所はない。元々かいじゅうたちはマックスの心の中にだけ住んで、マックスのやり切れない気持ちのはけどころとして機能していたので、マックスの心が凪ぐと、かいじゅうたちは用なしになってしまうのだ。キャロルはマックスの心の投影であり、マックスそのものであるから、マックスの心が落ち着けばキャロルが消えてしまうのもわかる。しかし一方、マックスの心の片隅に今もいるに違いないキャロルに心ざわつくものを感じてもしまうのだ。








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