Tristram Shandy -- A Cock and Bull Story

トリストラム・シャンディの生涯と意見   (2006年2月)

スティーヴ・クーガンは、これまで映像化が不可能とされてきた古典的綺譚「トリストラム・シャンディ」の主人公に抜擢される。郊外の古城で撮影は順調と言えば順調、波乱含みと言えば波乱含みで進んでいくが‥‥


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実は天下の奇書と言われるローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」を読んだことがあるわけではない。なんでも話が飛びまくってストーリーがあるのかないのかわからなかったり、やたらとシャレや言葉遊びがあったり、白紙のページがあってそこは読者が勝手に書き込むようになっていたり、あるいは真っ黒に塗りつぶされたページがあったりするという噂だけは聞いているのだが、正直言ってそういうトンデモ本に挑戦するだけの気力は、とてもじゃないけどなかった。


読者を楽しませるのではなく、読者に挑戦しようとする本とわたり合えるほどこちらは肝が据わっているわけでもなければ、読み巧者でもない。その「トリストラム・シャンディ」の邦訳がちゃんとあるというだけでも岩波は偉いと思ってしまうが、おかげで原作を読んでないということに対して逃げが打てない。いずれにしても、筒井康隆より250年以上前にほとんど同等以上のことを既にやっているやつがいたのかと感心してしまう。


当然この作品は映像化不可能だと言われてきたわけだが、その難業に挑戦したのが、演出のマイケル・ウィンターボトムと主演のスティーヴ・クーガンを中心とする製作チームだ。どちらかというと社会派という印象が強いウィンターボトムであるわけだが、今回はコメディ俳優のクーガンを起用していることからもわかるように、「トリストラム・シャンディ」はコメディとしてジャンル分けされている。


原作は特にコメディとして知られているわけではないが、今回、コメディとしての映像化を狙ったのは、その方が様々な方法論でアプローチできるからということが当然あろう。乱暴に言ってしまえば、失敗したら笑ってごまかせという気持ちがなくもなかったと思う。というか、実際問題として計算通りに観客を笑わせるというのは実はシリアスなドラマより難しかったりするから、どちらかというと、失敗したら私たちのことを笑ってください的な気持ちの方が強かったかもしれない。やはり単純に間口としてはコメディの方が柔軟だからというのが妥当なところか。


作品中には、オリジナルでは真っ黒に塗りつぶされたページ同様、それを映画でやったらどうなるかと、スクリーンが真っ黒になるシーンがあったりするのだが、やはりこういう演出はコメディの方が提出しやすいに違いない。まったく同じことを「キル・ビル2」でクエンティン・タランティーノがやっていたことを思い出す。実際、私は「キル・ビル」はコメディだと思っている。少なくともパロディであることは間違いあるまい。それにしても最近の映画はなんでもありだ。


さらに映画は、その「トリストラム・シャンディ」という作品を撮影中の撮影隊を描くという入れ子仕様にすることで、その上にまた一枚、構造上のヴェールを被せてある。要するにオリジナル作品が読み手の裏をかいてけむに巻いたように、映画だって文字媒体ができない技を使って観客をけむに巻いてしまえというわけだ。なかなか念には念を入れている。


そういった遊びというかひねりはそこで終わりではなく、クーガンは主人公のトリストラム・シャンディというだけではなく、その父ウォルターも演じている。しかも演じるクーガンは、作品の中でもクーガン本人として登場する。そして「トリストラム・シャンディ」のある一シーンがスクリーン上に投影されている時に、いきなり現代のクーガンが画面上にしゃしゃり出てきてなにやら口上を述べる、といった具合に、何が虚で何が実かなかなか判然としない。確かにその人を食った度合いというか、観客に挑戦する態度というかけむに巻こうとする姿勢は、オリジナルといい線行っているかもしれない。


主演のクーガンは、アメリカではBBCアメリカが放送したコメディ「アイム・アラン・パートリッジ (I'm Alan Partridge)」とそれに続く続編で知られている。映画好きなら、最近ならジム・ジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」で、どこぞのカフェテリアみたいなところでアルフレッド・モリーナと共演したセグメントでの、やたらとうざったい迷惑男で記憶している者も多いだろう。要するに、実際そういう色で売っており、ここでもかなりそういった印象を引きずっている。


他に意外な「本人」役として登場するのが「X-ファイルズ」のジリアン・アンダーソンで、実はアンダーソンは今、PBSで放送中の英国産ミニシリーズ、ディケンズの「荒涼館 (Bleak House)」に出演している。アンダーソンは「X-ファイルズ」出演時に較べてだいぶ痩せており、この種の時代的「館もの」がぴたりとはまるようになっている。アメリカのTV/映画界は私の使い方を知らないとぼやいていたのをどこかで読んだが、今後、英国での方が活躍する機会が増えそうだ。アンダーソンの出演が決まってから、彼女の「X-ファイルズ」での役名がモルダーだったかスカリーだったか混同する内輪ネタがあり (スカリーが正しい)、ふーん、「X-ファイルズ」は英国でもかなり流行ったんだなと思わせる。


結局、で、この作品が何を言いたいのかというと、ただこういうのをやってみたかったからというのが作り手の本音のような気がする。実際、こういう映像化不可能なんて言われている作品に挑戦して楽しめるのは、でき上がった作品を見ている観客よりも、一見不可能事に挑戦して頭を悩ませながら、実は内心嬉々として製作に携わっていた製作者たちだろうと思う。こういう不可能事に対し、ああでもないこうでもないと頭を悩ませるのは、実はすごく心躍る体験だったに違いない。それでそれがただの自己満足に終わるだけじゃなく、一応見ててそれなりに面白く、ちゃんと笑えるシーンもあるところが偉いといえば偉い。


実は今回ウィンターボトムの経歴をチェックしてて、彼の作品を劇場で見たのはこれが初めてだったことに気づいた。「めぐり逢う大地 (The Claim)」なんてわりと気に入っている作品なのだが、私の住んでいるところではものの見事にパスされて劇場で公開されず、結局ヴィデオ鑑賞だった。そういえば「ウェルカム・トゥ・サラエボ」もTVで見たのだった。一方「トリストラム・シャンディ」は、劇場で見るある演出家の最初の作品としては、特に適しているという気はまったくしない。実際、結構印象は強かったが、どう考えてもウィンターボトムはコメディ作家ではあるまい。なんとなくケン・ローチと近いところにいるような気がしていたのだが、これで印象覆ってしまった。








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