Three Times (最好的時光)   百年恋歌 (スリー・タイムズ)   (2006年5月)

1966年。軍人のチェン (チャン・チェン) は、ビリヤード場で働くメイ (スー・チー) に恋心を抱いていた。1911年。馴染みの娼婦を持つ文人がいたが、彼女には彼の心がわからない。2005年。バイ・セクシャルでシンガーのジンは自由気ままにその日暮らしを送っていた‥‥


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大作が連続して公開されるハリウッド夏の陣、既に「M:i:III」と「ポセイドン」が公開されている。今後も「ダ・ヴィンチ・コード」、「X-メン3」が公開されるというのに、インディ系小品でも「デーモンラヴァー」のオリヴィエ・アサヤスがマギー・チェン主演で撮った「クリーン (Clean)」、「L.I.E.」のマイケル・クエスタが撮った「トウェルヴ・アンド・ホールディング (Twelve and Holding)」など、そそられる作品が公開中か公開予定で、こちらの方も見たい。


そしてよりにもよって、ホウ・シャオシェンの「スリー・タイムズ」まで公開した。シャオシェンの新作、しかも今回は限定ながら一般公開だ。実は私が見た最も新しいシャオシェン作品は「悲情城市」で、既にそれを見てから15年以上経っている。もうそんなになるのか。数年前に「珈琲時光 (Cafe Lumiere)」が確か中国映画特集上映の一環として公開された時は、たった数回の上映で、おかげでこちらはわざわざ休日にクイーンズからサブウェイを二回も乗り換えてリンカーン・センターまで赴いたのに、無情にもチケットは売り切れで、また泣く泣くサブウェイを二度も乗り換えてうちに帰らざるを得なかった。シャオシェンのような巨匠を一般公開しないからこうなるんだと腹立たしい思いをしたのをまるで昨日のようによく覚えている。人は思い出したくないものほどはっきりと覚えているのだった。


その時の雪辱を晴らす機会が巡ってきた。とはいえやはり限定公開で、念じていたのにクイーンズまではやって来ず、上映しているのはマンハッタンでたったの2館のみ。それでも一縷の望みを抱いていたのに、今週の新聞広告を見たら無情にも公開終了間近の文字が。ダメだ、やはりクイーンズまでは来ない。マンハッタンで見るしかない。週末にまたわざわざマンハッタンまで出張るか、それとも平日、仕事の帰りがけに見るか。できればベストの状態で見たいのだが、週末でも遠出になることは変わらない。


というわけで、それならば時間を節約しようと、金曜夜に同じく仕事帰りの女房と待ち合わせてウエスト・ヴィレッジまで南下する。考えたらヴィレッジに来るのも久しぶりだ。単館上映のせいもあるのだろう、場内はほぼ満杯で、なんでこんなに人が入っているのにクイーンズまで来ないかなあと思う。まあ、ヴィレッジだからこそ満席で、クイーンズではたぶんこうはならないんだろう。いずれにしてもヴィレッジだとFかE一本で乗り換えせずにクイーンズまで帰れるから、距離的にはともかく、乗り換えの煩雑さを考えるとリンカーン・センターよりは楽だ。


ところでシャオシェンであるが、新作がちゃんと公開されるわけだからアメリカでも一応は認められている映画作家であるわけだ。それなのにエンタテインメント・ウィークリーではそのシャオシェンを、なんとカルト作家と称していた。カルト作家? よりにもよってシャオシェンがカルト作家か? 巨匠というのならまだわかるが。しかし、他の批評家も、たぶんシャオシェンは世界で最も評価されている最も知られていない作家と評していた。例えば世界中のどの映画祭とかに行っても、シャオシェンの新作がかかると必ず満席になるのだが、その一部の映画ファン以外にはほとんど知られていないらしい。


「悲情城市」の時くらいまではまだそれなりに大衆受けする要素もあったのだが、1シーン1ショットの長回しや静的な絵作りが極まってくる後期になると、ほとんど一般受けしなくなったようだ。こちらは「悲情城市」以来見てないからなんとも言えないが、あのシャオシェンがカルト作家と言われるようになったのか。私の記憶の中ではいまだに世界に冠たる巨匠なんだが。しかし、確かに台湾生まれの映画作家というと、今では誰の目から見てもアン・リーを上回る知名度を持つ監督はいまいとは思う。


さて「スリー・タイムズ」であるが、タイトルの通り、台湾における3つの異なる時代の恋愛模様を描く。シャオシェン本人がその時代に多感な時代を送ったであろう1966年、日本と中国の間に挟まれていた1911年、そして現代の2005年が、この順に描かれる。3話のまったく異なる話を描くオムニバスなのだが、登場するカップルはどれもチャン・チェンとスー・チーが演じている。それぞれ英タイトルでは「A Time for Love」、「A Time for Freedom」、「A Time for Youth」と副題がついているのだが、現代の漢字のタイトルではそれぞれに「夢」という一語がついていた。


見終わってからの感想を言うと、冒頭の、1966年を描くエピソードが圧倒的にいい。真ん中の1911年は、カメラが一度も屋外に出ないこともありかなり閉塞的で、この時代の台湾の状況を知らない人間が見たら、たぶんほとんど退屈と感じるんじゃないかと思う。最近のシャオシェンを知らない私にとっては、2005年を撮った最後のエピソードはかなり斬新で意外に感じた。


「1966年」は、ビリヤード場で働くチーに恋するチェンを描く。一見しての印象は、それまでチーをまったく知らなかった私から見ると、彼女はこういう純愛ものにはケバすぎるんじゃないかということだった。その印象自体はこのエピソードを通じて変わらないとはいえ、しかし、話を通低する静かなエモーションはかつて私が知っていたシャオシェンそのままで、ぞくぞくさせられる。


カメラは三脚の上から離れないがフィックスというわけではなく、自在にパン・ティルトその他縦横斜めにかなり動く。その構図に人が出たり入ったり、あるいはビリヤードの玉を追ってカメラは右に左に忙しなく、かといって急激にではなく動きながら、しかし描いていることは単に玉そのものではなく、その場所の雰囲気、状況、人間関係、そして究極的には登場人物の気持ちの揺れに他ならない。しかも冒頭の最初の10分くらいはほとんどセリフらしいセリフもないのだ。いや、これぞシャオシェンの独壇場、「ニュー・ワールド」のテレンス・マリック同様、ある種の映画作家は映画の文法をどのように効果的に用いるのかということではなく、彼らが新しい文法を作るのであり、文法そのものだということがよくわかる。


チーはビリヤード場を渡り歩いて仕事をしているのだが、チェンに行き先を告げずに姿を消したそのチーを軍務の休みに探して追って回るチェンの行動は、現代の視点から述べれば、ストーカー行為に他ならない。それも甚だしく常軌を逸した。いったい、ほとんど話を交わしたこともない男女のどこにそういう思い詰めた行動を支える動機があったのか。もしかしたらチーの方にそういうチェンを試す気持ちがあったりしたか。しかしどう見てもチーは戸惑っているように見える。それなのにいったいいつチーはチェンを受け入れ、二人の気持ちは通い合っているのか。よくはわからないが観客はいつの間にかそのことを受け入れてしまっているのだ。


一方、2番目の「1911年」は、まだ中国文化人が弁髪をしていた頃の娼館 (と思われる) を舞台としている。それが娼館なら男女間の関係は自明だと思われるが、それでも単に性愛を超えた関係になるのは、日本の昔のそういった時代を描く話でもよくあることであり、そういった関係もあったのだろうなということはわかる。男女の関係でありながら主人公の二人は、服を羽織らせたり髪を紡いだりする時くらいしかお互いに触れる機会はほとんどない。そのためそういった一瞬にこそ気持ちが高まったりもするのだが、やはり好きな人にもっと触れていたいのは人間の常であり、だからこそチーにとってはチェンの気持ちがわからない。


「1911年」があっと言わせるのは、このエピソードが白黒サイレントで撮られているというそのことに尽きる。白黒映像というのにも驚いたが、いきなりセリフが一枚扉の字幕で入った時には、さすがに一瞬絶句し、ちょっと苦笑してしまった。とはいえ、もともと会話が少なく映像で気持ちを代弁させるシャオシェン作品にとって、サイレントという構造には特に違和感はない。白黒映像なのだが、思い返すとなぜだかカラーのように色つきだったようにイメージが浮かぶ。それよりも、白黒サイレントであるのに、エピソード内でチーが歌う歌だけはちゃんと聞こえるという、実はこのエピソードは音楽が半分以上は主題であるのだと知れる。


当時の流行歌を使用したりするシャオシェンの音楽の使い方は、一部のファンにはかなりアピールするようだが、実は私は音楽に関して言うと、特にシャオシェンが使い方がうまいとは思わない。むしろちょっとあこぎすぎ、映像の洗練に較べて下手だとすら思う。もうちょっと抑えるくらいでちょうどいいと思っている。ここではチーがたぶん実際にも歌っていると思えるのだが、まるで知らない素養のない曲であることに加え、そういった使い方のあこぎさが表に出過ぎるため、乗らない。


たぶんこのエピソードは最も一般受けしにくいと思うが、案の定、後で聞いたら私の女房はここで寝てしまったそうだ。やっぱり。映像的には最も動きはないし、音楽は受けないし、なんといっても話の内容がわからないし伝わりにくい。その上白黒映像サイレントで聞こえるものは音楽のみとくれば、仕事帰りに見にきている者には安らかな眠りを誘っているのと同じようなものだ。私だって最初に「1966年」を見て興奮していたから一応ちゃんと見たが、「1911年」が一番最初のエピソードだったら、たぶん女房と一緒に寝てただろうと思う。だいたい、あれを白黒で撮るのはかなりもったいない。


3番目の「2005年」は現代の台湾を描くのだが、私がこれまでに見たシャオシェン作品は、ほとんど時代設定が少し前だとか、現代を舞台としていても田舎だったりして、このようにいかにも都会都会した台湾をシャオシェン作品で見るのは初めてである。こうやって見ると、たぶん舞台が一緒だから当然なのだろうが、エドワード・ヤンの「ヤンヤン 夏の想い出」を思い起こさせる。ビルの一室の部屋の前を高速道の高架が走っているところなんか、かなり印象が近い。


とはいえ、実は「2005年」が最も印象が似ているのは、近年のアジア製ホラー映画全般だったりする。癲癇持ちで男と女を二股かけている主人公の女、デジタル映像のオフィスに勤める男、自殺を仄めかす女、携帯でのメイルのやりとり、スタイリッシュな映像、ほとんどすべて最近のエイジアン・ホラーでおなじみだったりする設定だ。結局韓国も日本も台湾も同じ文化共同体の一部なんだという気がする。このエピソードが最近サンダンス・チャンネルやIFCチャンネルが夜中によくやるエイジアン・ホラー映画特集の一部に組み込まれていたりしても驚かない。しかもチーは現代風の格好をすると、いかにもホラー映画の主人公っぽく見える。シャオシェンがこういう内容の作品を撮るのか、やっぱり彼もアジア映画人の一人だったんだなあという印象を強く受けた。


とはいえいかにもシャオシェン的なショットも随所にあり、特にバイクで二人乗りするショットなんか、いかにもシャオシェンらしい。最近のバイクの二人乗りは、「ある子供」でもそうだったが、かなり印象的な絵を提供する。もっとも、風を切って走るバイクが映画的題材として適しているのは当然といえば当然だが。しかし「ある子供」でも「2005年」でもそれがハリウッド的なアップやカットの連続による編集によってではなく、1シーン1ショットのほとんどロングの長回しで撮られ、しかも同様に手に汗握らせる。「2005年」なんか、別にカー・チェイスでもなんでもないのに目が離せないのだ。それにしても、台湾にはたとえ一部とはいえバイク専用道路というのがあるのか。


また、興味深かったのが漢字を使っての携帯でのメイルのやりとりで、何千字もある漢字が読み入力で漢字変換をするのは難しかろうとは思っていたが、見ていると、やはりヘンやツクリにその他を足していく部首変換みたいな感じで文字を打ち込んでおり、それが見ていて面白かった。画面に「同音異義」なんて表示が出てくるのだ。きっと欧米人が見たら何やっているのかさっぱりわけがわからないだろう。


以上3編で私が最も好きなのは文句なしに最初の「1966年」なのだが、実は主演のチーはケバい印象が勝ちすぎて、「1911年」、および「2005年」の方がしっくりくる。一方チェンはそれぞれに好演しているという印象を受けた。ちょっと古くさいチェンも悪くないし、今風の顔もいい。「2005年」に出てくるチェンは、渡辺謙が若かった頃を彷彿とさせるいい顔をしている。チーはせめて「1966年」であれだけ厚化粧していなければもっと感じが出たのにと思ったが、当時ビリヤード場で働いていた女性というのはそういうものだったのかもしれない。


一方「2005年」があまりシャオシェンらしくないのは、いかにもシャオシェンらしくないチェンとチーのベッド・シーンがあることもその理由の一つなのだが、その時チーがしているブラジャーが、まるで色気を催さない安物の真っ白な幅広のスポーツ・ブラ風だったというのもまた印象に残った。台湾には勝負下着みたいな発想はないのか、それともチーのキャラクターがそんなことあまり気にしていなかったのか。似たような文化圏でも一皮むけばやはり違った点もある。 






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