幼いメラニー (ジュリー・リシャール) はピアニストになる夢を持って日夜練習に励んでいたが、大事なオーディションでピアノを弾いている最中、一人の女性がジャッジの著名なピアニストにサインをせがみに部屋の中に入ってきたことから集中力を乱され、失敗する。数年後、ピアニストになる夢を断ったメラニー (デボラ・フランソワ) は、ある裕福な家の子供の家庭教師兼家の周りの世話をする者として派遣される。その家を持つ弁護士の妻こそ、昔メラニーの夢を打ち砕いたピアニストのアリアンヌ (カトリーヌ・フロー) だった‥‥


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問題はクエンティン・タランティーノ/ロバート・ロドリゲスの「グラインドハウス (Grindhouse)」である。一昔前のB級アクション映画2本立て復活を目指した「グラインドハウス」は、確かにその話を聞いただけではそそられるものがあった。しかし、話を面白そうだと思うのと、実際にその話を現実化してしまうのは話が別だ。ものにはバカ話であるからこそ面白く、それを本当にやっちゃったらシャレにならないというのはごまんとある。


たとえばエイリアンとプレデターを勝負させるなんて話は、バカ話として楽しんでいるうちはいいが、それを本当に撮っちゃったらシャレにならない。とたんに想像を無限大に飛翔させる楽しさがなくなってしまう。シャレをわかっちゃいないよねえとバカにされてもしょうがあるまい。B級アクション2本立てなんてのも、話として楽しんでいるならいいが、それを本当に撮られちまうと、こちらとしては戸惑ってしまう。実際の話、今、2本立てを上映するシステムなんてアメリカには残っていない。ドライヴ・イン・シアターなんてのも既に過去の遺物なのだ。いったい、B級2本立てなんてどこで上映すればいいというんだ。


それで結局「グラインドハウス」は、タランティーノが監督する「デス・プルーフ (Death Proof)」と、ロドリゲスが監督する「プラネット・テラー (Planet Terror)」、それにフェイクの予告編をすべてまとめて連続上映する体裁をとっている。おかげで、90分が標準のB級作品2本に予告編を併せて、3時間10分という作品になった。もう勘弁してくれである。短く、一気にポイントを絞って見せるチープな楽しさこそB級アクションの魅力なのに、途中休憩なしで3時間あまりもB級映画を連続でなんて見たくない。


だいたい、もしそのうちの一本だけ見たく、それが後半上映される方だとしたらどうしたらいいのか。アメリカでは通常、上映が始まってしばらくしたら切符は売ってくれない。上映の最初から見て面白くなかったら途中退場するのは自由だが、途中から入場して見たいところだけ見るというわけにはいかないのだ。もし、今戦略的にB級映画を撮るというなら、あくまでも90分作品として抑え、その分入場料を安くして誰でもが気やすく見れるようにするか、あるいは入場料を安く抑えるのではなく2本立てが基本というのなら、間に休憩時間を入れるというのが正しい方法論だろう。どちらか一本見たいものだけを見ることができるというのもB級2本立ての基本的なシステムであったはずで、できない相談ではないはずだ。その根本的な構造の部分でB級2本立てシステムを復活させることができないなら、そもそも最初からB級2本立てなどやるべきではない。本当に、いつもこの二人には愛憎半ばする感情を抱かされる。


結局「グラインドハウス」は、話題だけは提供したのは確かだが、それが興行成績に結びついたかというと、そういうわけにはいかなかった。当然だろう。私のように最初は様子見で、もし口コミで本当に面白いということになったら見に行こうと考えていた者が多いはずだ。3時間超というのは誰にとっても貴重なのだ。みすみすムダにしたくはない。それで公開初週の興行成績こそなんとか4位に食い込んだが、翌週には10位に下落、その翌週には選外に去った。結局それくらいの面白さしかなかったということか。まあ公平を期すと、同じ週に公開のヒラリー・スワンク主演の「ザ・リーピング」と同程度の成績なんだが、それでも、最初から批評家から総すかんを食っていた「リーピング」と、それよりも話題性はまったく高く、一応は誉めている媒体もあった「グラインドハウス」が同じ成績では、正直言って期待はずれだろう。


それだけでなく、公開翌週には、実は私の住む場所の映画館では「グラインドハウス」は深夜の最終回のみ上映になっていた。上映開始時間が深夜零時過ぎ、終わるのは3時を回っている。これではいかに夜更かし好きな若者といえども二の足を踏むだろう。どうやら「グラインドハウス」は劇場主からも見放されたようだ。いずれにしても、おかげでこれで「グラインドハウス」は安心してパスすることにする。DVDかPPVになった時に見れば充分だろう。それこそB級映画に相応しい視聴スタイルという気もする。


それでその反動というわけでもないが、ほとんど誰も話題にしていないフレンチ映画の「ザ・ページ・ターナー」を見に行く。ほとんど話を聞いたこともなく、雑誌や新聞で評を見たことすらないのだが、実はもう一と月ばかり近くの劇場でやっていて、ちょっと気になっていたのだ。内容をチェックする前に私が予想していたのはスリル・サスペンスもので、要するに英語だと、ページ・ターナーというのは本のページを繰るのが止まらない、読み出したら止まらない面白い本のことを指す。そしたらこちらの映画の方は、ページ・ターナーとはピアニストの隣りに座って楽譜をめくる人のことをいうのだった。


その内容はというと、オーディションで些細なことから将来の道を断たれた幼いピアニスト志望の女の子が、復讐の暗い欲望を抱いてその機会が到来するのを待つというもので、それはそれで面白そうである。避暑地のような場所で起こる、心理サスペンス主体の一夏の出来事ということもあって、フランソワ・オゾンの「スイミング・プール」と比較言及している者が多かったため、それではとこちらにしたのだった。なんでも演出のドニ・デルクールは自身も音楽をたしなむそうで、だいたい音楽の使い方のうまい作品というのはそれだけでも楽しめたりする。


主人公のメラニーは思い込んだら命がけみたいにピアノの練習をし、将来はピアニストになりたいと思っていたのだが、芸術学校に入る重要なオーディションで失敗する。ちょうど彼女が演奏しているその時に、審査をしている著名なピアニストのアリアンヌのサイン欲しさに会場内に入ってきた者がいて、集中力を乱されたためだ。そういう常識知らずにサインしてあげるアリアンヌに対し、メラニーは暗い復讐心を燃やす。


数年後、ピアニストの道を諦めたメラニーはとある弁護士事務所にインターンとして派遣される。その事務所の経営者の家では、夏の間の少年の子守役と家の切り盛りをしてくれる者を探していたのだが、メラニーは自分から進んでその役を引き受ける。その経営者の妻で、数年前に交通事故に遇って身体のバランスを崩し、音楽家として進退を決める重要な時期にいる女性こそが、メラニーの将来をめちゃくちゃにしたアリアンヌに他ならなかった。メラニーはアリアンヌに取り入り、譜めくりとしてアリアンヌの信頼を得るようになるが、もちろんアリアンヌは、メラニーが、昔アリアンヌがその将来を閉ざした女性であることを知る由もなかった。


実はこの作品、単純にそのストーリーだけを追うと、かなり今の日本や韓国映画と近いものを感じさせる。非常にドメスティックで、自己完結型の主人公の復讐譚なのだ。登場人物の内面の方を重視し、特に大がかりな撮影セットを組むわけでもない。近年、ヨーロッパで最も日本と近しいものを持っている国はフランスという印象が強かったのだが、今回もその印象を新たにした。歴史のある文化的お国柄と言うと聞こえはいいかもしれないが、反面閉鎖的という言い方もできる。だからこそこういう思い込みの強い登場人物の自己完結型ストーリーが現れ、しかもあり得ないことではなさそうに思わされる。


細部をおろそかにせず、だんだんとカタストロフィに向かって積み上げていく手腕はなかなか楽しませてくれるのだが、気になる点が2か所ある。話のポイントとなる重要な点なので、揚げ足とりのようだが少々苦言を言わせてもらうと、まず、最初、メラニーはオーディションで失敗したことから人生を狂わされるのだが、審査員のアリアンヌだって、その日が当然子供たちにとって非常に重要な日であることは理解している。だからこそ彼女が会場入りする前にサインを求められても、それを断って淡々と試験場に足を運ぶのだ。


それなのに、そのオーディションをしている真っ最中の会場に先ほどサインを断られた女性がぬけぬけと入ってまたサインをせがむという状況は承認し難い。セキュリティ云々というよりも、先ほどつれない態度をとっていたアリアンヌが、今度はオーディション中というのに、その女性をとっとと追い出したいからというより、別になんの考えもなしにただ頼まれたからという風情で今度は写真にサインするという設定は、かなり受け入れにくい。今オーディション中だから出て行ってくれという反応を示すのが普通だろう。メラニーの一生を台無しにした重要な出来事なのだから、ここはもう一つなんか工夫が欲しかった。ここでアリアンヌがサインするくらいなら、その前に彼女がサインを断るという描写はむしろ逆効果である。



*   (((以下ネタばれ注意)))


((( もう一つはクライマックスで、アリアンヌの信頼を得たばかりか恋愛の対象にすらなったメラニーに対し、アリアンヌは、愛しているわ、あなたは私の人生を変えた、みたいな書き置きを認めた写真をあげる。メラニーはその写真をアリアンヌの夫にさりげなく見せることで夫はすべてを察知し、そしてすべてを知られてしまったと知ったアリアンヌはその場にくずおれる。これまた難しいと思う。なぜならば、写真の裏にあなたを愛しているとか書くのは、フランスを含め、西洋諸国では親しい者の間では結構頻繁にあることだからだ。ゲイじゃなくても結構同性同士でも言い合ったりする。


つまり、あれだけではアリアンヌが恋愛の対象としてメラニーを見ていたということの証拠にはなりにくい。アリアンヌが、ただ親愛の表現としてそう書いたと言い張れば、むしろその方が通ると思うし、それよりも、そういう写真を見せられたからといって、夫がすぐメラニーとアリアンヌの恋愛関係を察するというのはさらに納得しにくい。もし私が夫の立場だったとしたら、仲のよい子弟になったのだなとしか思わないだろう。そりゃあ私は恋愛の機微に疎いかもしれないが、あれは飛躍があり過ぎる。ここももう一つ、なんか決定的な事件が別に欲しかった。ただし、アリアンヌが写真にサインをしたことがメラニーの一生を狂わし、そして今度はそのことがアリアンヌの人生を狂わせるという呼応はよく考えられている。惜しむらくはそのことにこだわりすぎて、カタストロフの必然性が薄まってしまったことにあるかと思う。 )))



実はこの作品、わりと長いことやっているなと思ったわりには、劇場に行ってみたら、客は私たち夫婦二人きりだった。何十年も映画を見てきて、客がちらほらと数えるほどしか入ってない映画というのもこれまでにも数えきれないほど見てきたのだが、本当に自分たちだけという貸し切り状態で映画を見たのはこれが初めてである。ロング・ランしてそれなりに人が入っていそうだからと思って見にきたのに、これはなんだ。それなりに面白かったが、結局今週は人が見ない映画を見る週だったかと思ったのであった。







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譜めくりの女 (ザ・ページ・ターナー)  (2007年4月)

 
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