The New World   ザ・ニュー・ワールド   (2006年1月)

17世紀。英国からのアメリカ入植者はヴァージニア州に船を乗り入れ、入植の拠点にしようとしていた。ちょっとした小競り合いでネイティヴ・アメリカンの一人を殺してしまった英国側は、絞首されるところを恩赦になったジョン・スミス (コリン・ファレル) を首長の機嫌伺いに使わせる。そこで殺されそうになったスミスを身を挺して救ってくれたのは、首長の娘ポカホンタス (コリアンナ・キルヒャー) だった‥‥


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忘れた頃に新作を引っさげて現れるテレンス・マリックの新作。マリックはアメリカ映画界に確固たる地盤を築いている監督にしては、73年のデビュー作「地獄の逃避行 (Badlands)」、78年の「天国の日々 (Days of Heaven)」、98年の「シン・レッド・ライン (The Thin Red Line)」、そして今回の「ニュー・ワールド」と、30年を超えるキャリアでわずか4作を撮っているに過ぎない。特に「天国の日々」から「シン・レッド・ライン」までは20年というブランクがあり、映画ファンは誰もがマリックはもう映画を撮るつもりはないと思っていた時期があった。


一時は映画監督としてというよりも、クエンティン・タランティーノが、おれは10年に1作しか映画を撮らないでマリックみたいな伝説的映画作家になるんだと吹聴していたことで、マリックって誰? ってやけに名前が売れていた一時期があった。そのマリックが「シン・レッド・ライン」で再び我々の前に姿を現した時は誰もが驚いたし、それからたった7年後に新作が見れるとは、さらに驚きだ。


「ニュー・ワールド」は、17世紀の英国人アメリカ入植者とネイティヴ・アメリカンを描くドラマだ。要するにポカホンタスの話なのだが、当然マリックが紡ぐポカホンタスの話が、ディズニーが描く砂糖飴のような話になるわけもない。冒頭、ヴァージニアの湾岸部からやや内陸部に入り込んだ河川に、英国軍の帆船が浮かぶ。初めて見る大がかりな船を遠巻きにして見つめるネイティヴたち。果たして彼らは敵か味方か。久しぶりにツボにはまったようなジェイムズ・ホーナーの音楽が、いきなり緊張感を盛り上げる。


そもそもの最初から映像の詩人と呼ばれてきたマリックだけあって、かなりの部分セリフを排し、映像によって話を展開させる。もっとも、英国人とネイティヴ間では当然話は通じないため、大部分を手振り身振りで意思の疎通を図るしかない。マリックは、わざとこの時代のこの場所を選ぶことで、セリフを用いることができない舞台設定にしているようにも見える。


入植者とネイティヴたちは、時に小競り合いを続けながら、一応は共存の体勢を整えていく。よく考えると、どう見てもこれは侵略であるとしか思えない。英国側は下手に出て相手の出方を窺っていたりするわけだが、結局引く気はまったくなく、いざとなればネイティヴの知らない火器という手段を用いて相手を凌駕することが可能だ。要するに当時の英国はそういうものであって、世界中を侵略して富を集めていたわけだが、それはアメリカであっても同じだ。そうやって、いつの間にやら相手を手なずけていたり、建て前上は共存共栄的な外観をとり繕ったりする。要するに、懐柔策がうまい。そうやっているうちに、いつの間にか入植村は大きくなり、一方、ネイティヴの村は内陸部へと追いやられていく。


本来なら死刑になるところを恩赦になり、ネイティヴとの交渉の第一陣として送り込まれたジョン・スミス (コリン・ファレル) は、危ういところを首長の娘の一人ポカホンタス (コリアンナ・キルヒャー) の懇願によって助けられる。二人は気持ちを通い合わせるようになるが、当然その関係がずっとうまく続くはずもない。スミスは村から離れることになり、おれは死んだとポカホンタスに伝えるよう言い残して村を去る。


首長の命令を無視してまで英国側やスミスを助けていたポカホンタスは、自分の村に帰ってもいる場所がなく、結局英国人のような衣服をまとって入植村に居残らざるを得ない。そこでひっそりと暮らしていた彼女は、新しく入植してきたジョン・ロルフ (クリスチャン・ベイル) に見初められ、彼の妻となる。ポカホンタスは、特に自分を主張するでもなく、運命の天変を受け入れ、ネイティヴでありながら同様に英国人にも接し、英国人のように着飾っても自分自身を失わない。か弱そうでありながら芯は強く、筋は通しても物腰は柔らかいというような役柄なのだが、そういうのをほとんどセリフを排して納得させるキルヒャーとマリックの手腕にひたすら感心する。


作品はそういう、あるがままの世界を受け入れ、ロルフと、彼との間に生まれた息子と共に生きていくポカホンタスを描きながら幕となるのだが、最後、そういうポカホンタスの気持ちが、多少はヴォイス・オーヴァーによって説明されようとも、ほとんど映像と音楽だけでびんびんに響いてくる。先週、映像によってストーリーを紡いでいくアン・リーの「ブロークバック・マウンテン」に、絶妙な職人芸と感心させられたが、演出セオリーというよりも、自分の感性だけを信じ、たぶんまったく映画の文法を無視して直接見る者に訴えかけてくるマリックの演出 (これは演出なのか?) は、これはもう圧倒的である。映像と音楽とそれまでのストーリー展開の足し算ではなく、それらを自由に掛け合わして二乗する神業に近い。


むろん、こういう意見は知らず知らずツボに入ってしまった者のみが言える特権だろうとも思うが、しかし、マリック作品と噛み合うと、こういう特権的感動を得ることができる。最後なんて、自分でもなんでこんなに泣いてしまうんだと思うぐらいぼろぼろ泣けて泣けてしょうがなく、ぼたぼたとあごを伝って涙がこぼれ落ちてしまう。周りに人がいなければ声を上げていたかもしれない。まったく恥ずかしい。いったい、こんなに泣いたのはどれくらいぶりだろう。「ミリオン・ダラー・ベイビー」ですらここまで泣かなかったぞ。考えたら「天国の日々」でも、イナゴの群れが空を飛んでいくという、ただそれだけでなぜだか無性に泣けたのを思い出す。いやあ、私はマリックと波長が合うなあ。それにしてもバカみたいに泣いてしまったので、上映後に外に出るとすっきりとして爽快なことといったらない。泣ける映画が受けるというのもわかる。


「ニュー・ワールド」の主人公はキルヒャーとファレルみたいな書かれ方をよくしているが、それはあくまでマーケティング上の要請であろう。実際、ファレルは途中からいなくなってしまうわけだし、そのあとで登場するベイル演じる寡黙なロルフの方が、キルヒャーとバランスがとれていてかなりいい。ベイルは「バットマン・ビギンズ」といい今回といい、ここんところかなりよくなったという印象を受ける。


さらに、ほとんど使い捨てに近い感じで用いられる脇役陣にも唸らされる。冒頭に登場する英国軍の指揮者はクリストファー・プラマーで、その指揮下にいるのはデイヴィッド・シューリス、ノア・テイラーという癖のある面々だ。その他にも、いかにも体力優先で教育を受けていなさそうな頭の悪そうな面構えの先発隊の入植者と (子供までそうだ)、その後に入植して来る、今度は上の位の教育を受けた者たちとでは、顔の作りががらりと変わる。そういうのを見ているだけでも飽きない。


「ニュー・ワールド」は、実は公開後しばらくして、新たに編集を施して15分ばかり短くなった新ヴァージョンが完成した。つまりある週を境に、15分の差がある2ヴァージョンが続け様に公開されている。私が見たのは新しい短い方なのだが、元々マリックってジャンプ・カットも辞さないタイプだったし、所々話が飛んだような気がしないでもなかったが、だからといってそれが特に気になるわけでもない。この短いヴァージョンは、一応建て前上、完全主義者のマリックがいまだに編集に手を入れていたからとかなんとか理由づけがされていたが、本当はオスカー狙いで年末に公開された大作がことごとくと言えるくらい失敗していることにスタジオが怖じ気づいて、マリックに再編集を要請したというところが本当のところっぽい。


あれだけ鳴り物入りで公開し、昨年度の最大の大作であることが誰の目にも明らかだった「キング・コング」が、製作費と興行収入の割合からいうと失望させるものでしかなかったことを筆頭に、「ミュンヘン」「SAYURI」等、2時間を余る作品がことごとく興行的には失敗している。当初2時間半だった「ニュー・ワールド」に、スタジオが怖じ気づいたのも無理はあるまい。年末公開作品で2時間を超えて成功しているのは、ずばり「ブロークバック・マウンテン」だけだろう。しかし、「ニュー・ワールド」はその短いヴァージョンが現在公開中であるのにもかかわらず、DVD発売時には、今度はさらに長いヴァージョンが収められるということも発表になっている。いったいどれを見たら「ニュー・ワールド」を見たと言っていいことやら。


年々体力の衰えを自覚してきている私であるが、それでも、その作品が本当に面白いものであるならば、3時間であろうと辞すつもりはない。実際、2時間45分の「ミュンヘン」なんてあっという間だった。しかし、既に過去2回見たことがあり、しかもストーリー的にはB級で、どう考えても2時間で撮れるのがわかりきっているのをこけおどしであと1時間も引き延ばしたとしか思えない「キング・コング」を劇場で見ようという気には到底ならない。むろん見世物としての映画がこけおどしであってもいいわけだが、だったら今度はそれこそ2時間以内に収めるべきだろう。一方、「ニュー・ワールド」の場合は、たとえ技術が進歩し、自宅のリヴィングで50インチのHDTVが見れるようになろうとも、その映像が喚起するものを十全に感得するためには、やはりスクリーン上で見るしかなかろうと思う。







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