ワシントンD.C.に住む精神科医のキャロル (ニコール・キッドマン) は、政府疾病管理予防局に勤める夫タッカー (ジェレミー・ノーサム) と別れ、息子のオリヴァーと二人で暮らしていた。一方、ミッションを終えて地上に戻る途中のスペース・シャトルが空中で爆発炎上、機体は得体の知れない何ものかに汚染された状態で、地上に残骸がばらまかれる。タッカーはその責任者として現場を検証していた‥‥


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過去ドン・シーゲルとフィリップ・カウフマンが1956年および78年に映像化しているジャック・フィニィのクラシックSF「盗まれた街」 (映画名「ボディ・スナッチャー (Invasion of the Body Snatchers)」) の3度目の映像化。と思って調べてみたら、実は93年にもアベル・フェラーラが「ボディ・スナッチャーズ (Body Snatchers)」として映像化していたことを知った。こちらの方はまったく知らなかった。


というわけで今回は4度目の映像化になる。演出はオリヴァー・ヒルシュビーゲルで、彼は「es (エス)」でもフィリップ・ジンバルドによる「看守」-「囚人」ロール・プレイを元に、普通の人間が環境によって別の人間に変わっていく様を描いた。どうやら人格の変移や崩壊が追い求めるテーマらしい。


過去の映像化は、フェラーラ版は見ていないけれども、古い順に評価が高いようだ。白黒のシーゲル版で、白い繭の中でだんだん人間の体裁をとりつつあるボディ・スナッチャーズというのは、今ではこんなのSFXとすら言わないロウ・テクの撮影だろうが、しかし、最初見た時はやはり印象的だった。カウフマン版は、なにはともあれ乗っ取り先の細胞再構成に失敗した、人面瘡ならぬ犬面瘡をかかえたイヌが最も印象に残っている。どちらも見たのは20年以上も前だから、覚えているシーンがあるというだけでも、見た当時にそれだけ印象的だったことの証拠だろう。


基本的にシーゲルもカウフマンも、SFやホラー・プロパーの映像作家ではない。むろん職人的な映像作家は、特に一昔前はどんな題材だろうと撮ったが、シーゲルと言えばやはり思い出すのは「ダーティ・ハリー」だし、カウフマンの代表作と言えば、これは「ライトスタッフ」にとどめを刺す。フェラーラだってSFもどきもあるが、最も知られているのは「バッド・ルーテナント」だろう。原作のフィニィだって、私は最初「盗まれた街」ではなく、「ゲイルズバーグの春を愛す」のフィニィとして長い間知っており、確かにSF/ファンタジーだとはいえ、こういうホラー寄りの印象はなかった。


つまり、これだけ系統の違う映像作家によって何度も撮られているということは、隣りの誰かがいつの間にか自分の知らない他の誰かに変わっていたということが、それだけ想像力を刺激する題材だということなんだろう。実際の話、このたった一行のアイディアを元に数限りない新しいアイディアが生まれそうだし、昨シーズンはTVでもABCが、やはりフロリダの山間の町でいつの間にやら人が身体をのっとられていたという、ずばり「インヴェイジョン (Invasion)」というタイトルのドラマ・シリーズを放送していた。


ついでに言うと、主演のウィリアム・フィクトナーは番組が1シーズン限りでキャンセルされたため、数か月後にはFOXの「プリズン・ブレイク」の第2シーズンからレギュラー出演していた。「インヴェイジョン」は第2シーズンに続く可能性がありながら終わったため話の決着がついておらず、おかげで私は昨シーズンは、フィクトナーがエイリアンに身体をのっとられたままスコフィールド兄弟を追うという印象が濃厚の、SF「プリズン・ブレイク」を楽しむことになった。むしろ混乱したというのがより正しい形容だが、アメリカのTV番組を追っていると、色んな意外なことが起きる。


要するにそういうそそるテーマのため、知らないところで少しずつ起こっている侵略ものは、微妙に設定を変えながらこれまで何度も映像化されてきたわけだ。今回は主人公はニコール・キッドマンで、離婚歴があり、男の子が一人いるという設定だ。前夫は政府で働いており、ミッションに失敗して宇宙で汚染されたまま空中で爆発し、地表に墜落したスペース・シャトルと接触、感染する (のっとられる。) 一方、キッドマン演じるキャロルは精神分析医であり、自分の夫がなにやらおかしいと訴えてくるクライアントが、果たして本当のことを言っているのかそれともおかしいのは彼女の方なのかと思わせ、なかなかうまい出だしと言える。


どこまで意識的かは知らないが、「インベージョン」が公開された週は、久しぶりにスペース・シャトル「エンデヴァー」が打ち上げられた週と重なっていた。しかもエンデヴァーはアメリカ上陸が予想されるハリケーン「ディーン」のためにミッションを短縮して急遽帰還というスケジュールに変更になった。さらに過去の「チャレンジャー」の爆発炎上という事故の記憶もあるため、なんというか「インベージョン」のオープニングのスペース・シャトルの事故という設定は、必ずしも絵空事とは思えない一縷のリアリティがないこともなかった。そこまでを見越して公開時期を設定していたのだとしたら、見事なマーケティングと言うしかない。


身体をのっとられた人々は感情の起伏が平板になり、顔から表情がなくなる。この設定はだいたいどの映像化でも同じであり、要するに表情というのが逆に最も人間的なものの一つであることの証明になろう。実際の話、何も表情のない、能面面というのが一番怖かったりする。相手が何を考えているのかまったくわからないからだ。相手が憎悪の表情をしているのも怖いが、真っ白なのも同様に怖い。いずれにしてもそのため、人が何ものかにのっとられ始めたことに気づいた人々は、町を歩く時はできるだけ気持ちを表に現さないようにする。でないと自分がまだ人間であることがバレて襲われてしまう。


要するに作品としてはここがキモだ。なんてったって主人公は常にオーヴァー・リアクションの誘惑と戦っているキッドマンだ。ややもすれば大仰な演技になりそうな一瞬を常に内包していながら、その誘惑に抗ってきたことが女優としてのキッドマンの経歴なのであり、ここではその設定がキッドマンにそういう演技をすることを表立って許している。本当なら叫んで駆け出したいところを、それをやるとまだのっとられていないことがバレるので、内心の恐怖と葛藤しながら、できるだけ平然を装ってその場を去るのだ。その時のキッドマンの微妙な表情。地下鉄で会った面識のない赤の他人から、表情を表に出すんじゃない、とわざわざ釘まで刺される始末なのだ。うーん、キッドマンのための映画だなあ。思うに、キッドマンはかなり成功作と失敗作の差が大きいとはいえ、自分に合う作品を選ぶという嗅覚は確かだ。


とまあ、「インベージョン」は、キッドマンのファンにとってはかなり満足できる作品に仕上がっていると思う。ではあるが、作品として完成度が高いかというと、積極的にうんとは言えないのが苦しいところだ。実際の話、「インベージョン」の撮影は一昨年であり、でき上がったものに満足しなかったスタジオにより、撮り直しに次ぐ撮り直しで結局公開が遅れに遅れた。スペース・シャトル打ち上げに合わせたのは、だからどうせここまで遅れたんだからと、さらに時宜を待ったのかもしれない。IMDBにアクセスすると、ちゃんとその撮り直しを担当した監督として「Vフォー・ヴェンデッタ」のジェイムズ・マクティーグの名が併記されている。クライマックスで、それまでとかなり印象が変わってアクションが横溢するのは、その撮り直しのせいだろう。


また、そのため、キッドマンの新しい恋人候補の医師ベンを演じるダニエル・クレイグが、今ではその後「カジノ・ロワイヤル」で新しい007として世界のスーパースターの仲間入りを果たした俳優とは思えないほど小さな端役扱いになっている。クレイグ目当てに「インベージョン」を見に行くと、キッドマンに邪険に扱われるクレイグを見てがっかりすること必至だ。結局「インベージョン」は降ろされたヒルシュビーゲルの作品でもクレイグの作品でもなく、やはりキッドマン主演作と言うしかない作品になった。正直言って中盤、もっと街中で感情を表に出すことを禁じられたまま翻弄されるキッドマンを見たかった気もしないではないが、撮影済みで使わなかったシーンはおまけにつけてDVDを買わせようとするやはり考えられたマーケティングの一種か。でも、それ、欲しいかも。







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The Invasion   インベージョン  (2007年8月)

 
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