The Da Vinci Code   ダ・ヴィンチ・コード   (2006年5月)

学会のためにパリを訪れていたラングドン (トム・ハンクス) に、パリ警察が面会を求めてくる。ラングドンが会う予定になっていたルーヴルの美術館長が館内で何者かに惨殺されたのだ。殺人の疑惑をかけられるラングドンだったが、そこへ館長の孫娘でやはりパリ警察で働いているソフィー (オドレイ・トトゥ) が現れ、彼女の助けもあってラングドンはその場を脱出する。二人は館長の、そして彼の死のきっかけとなったダ・ヴィンチの絵に隠された謎を解き明かすべく奔走する‥‥


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ダン・ブラウン著の世界的ベスト・セラーの映像化である「ダ・ヴィンチ・コード」が注目されているのは知っていたが、これほどだとは思わなかった。歴史ミステリーというのは確かになかなか惹かれる題材であり、私も嫌いじゃない。しかしその上に謎がキリスト教の成り立ちにまで関係しているとあって、世界中に何十億人といる主としてカソリック教徒の興味、有り体に言えば反感を得ることでさらに注目を集めたようだ。


実際、一昨年、ニコール・キッドマンが、夫が輪廻転生したと思われる少年と一緒に風呂に入るというただそれだけでバチカンから横槍の入った「バース」を例に引くまでもなく、宗教というものは盲目的な信心を要求し、少しでもそのコードに触れると、信者やその宗教母体の反発を招く。今回も、見る気ではいたとはいえ忙しさにかまけてその日から公開されていたとは気づかなかった「ダ・ヴィンチ・コード」公開初日に仕事帰りにうちの近くの劇場の前を通りがかると、「ダ・ヴィンチ・コード」に反発するカソリック信者が、映画上映反対、私はこの映画を信じない、などと書かれたプラカードを持って示威行為を行っていた。私が住んでいるような郊外ですらそうなんだから、マンハッタンではもっと大がかりなピケを張っていただろうというのは想像に難くない。


実は私は原作を読んでなく、そのため、物語はキリスト教の隠された真実を暴くというよりも、ダ・ヴィンチがその絵の中に残した謎を解くという話だとばかり思っていたので、最初、映画がなぜこんなにカソリックの反対を受けているのかがよくわからなかった。原作を読んだ者、あるいは既にこの映画を見た者ならわかるのだが、要はこの作品、ダ・ヴィンチが残した謎はキリスト教という宗教の根本的な土台にまで関わっている。信者から見れば、確かに自分の信じているものを足元からひっくり返されかねない大胆な仮説から成り立っているのだ。


ミステリ好きの私としては、たとえほら話だろうが幾分かの真実を含んでいようがあるいは真実そのものだったとしても、当然こういう話は嫌いじゃない。信じようが信じまいが頭の体操になることは事実であり、読んだり見たりしている間は、誰だって、ではどうなるのかと先が気になると思う。しかして宗教というものは、元々自分が信じたいことを信じているにすぎない。あるいは親がその宗教だから自分も物心ついた時にはなんとなくそれを信じていたりする。いずれにしても、であるからして本当なら他の誰が自分の信じていることに難癖つけようがかまわないはずなのだが、しかし、その信じているものの絶対的な理由、存在価値というものが手にとって触れるような確固たるものではないこともまた心の奥底ではわかっていたりするから、そこを他人に突かれたりすると、それこそ激昂してあっという間に理性なんか吹っ飛んでしまう。このことは戦争だらけの世界の歴史を紐解くまでもない。


おかげでこういう風にエンタテインメントとして自分の信じている宗教が提出されたりすると、反応はほとんど反射的に強力な反対となって返ってくる。別に作品がキリスト教に反対しているとか教えが間違っていると言っているわけではなく、ただ、別の構造を見せただけでこれだけ世界中のカソリックの反感を買うわけだから、やはり宗教というのは強いというか、恐ろしい。目に見えないものに命をかけられることこそが宗教というか、人間の最大の特質だったりする。


私としては楽しめればそれでよいので、別に誰それが賛同しようが反対しようがかまわない。捏造だろうが牽強付会だろうがこじつけだろうが偶然だろうが、これだけのストーリーを提出した原作のアイディアには感心してしまう。あまりにも提出した世界がでかいので、もしかしたら本当だったりするのかもしれないなんて思えたりする。ほらは大きくて想像の埒外であればあるほど逆に信憑性を得ることができるとどこかで誰かが言っていたのを覚えているが、キリストの秘密というよりもそういう箴言みたいなものの方に思いが至る。結局、私にとってはキリスト教最大の謎の解明よりも、それをいかに語っているかということの方に興味が向かうのだった。


演出はヴェテランのロン・ハワードだから、これだけの原作を、かなり端折っているだろうとはいえ一応は手堅くまとめている。主演のトム・ハンクスがハーヴァードの教授に見えるか、オドレイ・トトゥが刑事に見えるかという疑問もないことはないが、話自体が盛大な架空のおとぎ話みたいなテイストがあるので、いまさらそのことをどうこう言っても始まらない。これはハリウッド・ムーヴィなのだ。いったい、ハリウッド以外の誰が現実にルーヴルの中にロケしてまでこういう奇想天外な話を真面目に撮ろうなんて考えるだろうか。しかし、やはりトトゥは、いくらパリ警察の女性刑事でも刑事が、たとえピン・ヒールではなくともあんな高いヒールの靴を履くか、あんた、走れてないだろうがとどうしても突っ込みを入れたくなる。もしかしたらパリには本当にヒールのある靴を履く女性刑事がいるのかもしれないが。


実は私にとって主演の二人よりも印象的だったのが、禁欲的白子修道士を演じたポール・ベタニーと、こういう役柄ならお手の物のティービングに扮するイアン・マッケランである。ベタニーは、元々うまい役者だと思っているのだが、久しぶりに今回は悪くなかった。「ファイヤーウォール」でも、彼はもっと禍々しい印象を残せるはずと思っていたのだが、今回の狂信的な役回りはいい。一方マッケランは、いかにも楽しんで演じているようで、余裕という感じだ。実際、この手の役を振る役者としては、マッケラン、ジョン・ハート、ブライアン・コックス、マイケル・ガンボンあたりの一握りの役者以外を考えることはかなり難しい。


私にとっては楽しめる盛大なほら話という印象が濃厚な「ダ・ヴィンチ・コード」なのだが、そうでなくシリアスな者が多かったという証拠の一つとして、ほぼ満席だった場内の、かなりの家族連れがまだまだ幼い子供を連れて見にきていたということがある。親が自分が見たかったということも当然あるだろうが、子供にも見せようと真面目に思っていたようなのだ。それもせめてロウ・ティーンくらいになっているくらいの子供ではなく、4、5歳くらいの、ようやっと物心がつき始めたくらいの子供と一緒に見にきていた家族連れが結構いたのには驚いた。いくらなんでも内容が理解できるのか。英語だとはいえ我々夫婦だって結構理解が飛んだので、家に帰ってきてからあのシーンは‥‥なんて復習せざるを得なかったりしたのに。


実際ガキどもが途中で飽きたのは間違いなく、ぐずって泣き出した子が何人もいて、親が慌てて泣きわめく子を抱きかかえて外に連れ出していた。途中でガキの泣き声がこれだけ聞こえる環境で映画を見たのは本当に久しぶりだ。それでも自分が見たい、あるいは子供にも見せたいと考えている信心深い、あるいは疑い深い親は、どうしても子供と一緒に映画を見たかったらしく、子供がぐずったらすぐ一緒に外に出れるように、出口に近い通路に座り込んで、子供を膝の上に乗せながら熱心にスクリーンを見ていたりした。


出口のそばで立って子供を抱きかかえたまま見ている親もおり、そうやっている親子が十組くらいいた。一応座席数分しかチケットを売らないアメリカの映画館で、観客が通路に座り込んでスクリーンを見ているというシーンを見たのは、後にも先にもこれが初めてである。おかげでうちに帰ってきて最も印象に残っているのが、映画そのものよりも、通路に座って一緒にスクリーンを見上げている何人もの親子連れのシーンだったりする。わけがわかっているのかいないのか、親と一緒に一定方向に向かって顔を見上げる子とその親を見て、私が思い出したのはスティーヴン・スピルバーグの「未知との遭遇」だった。






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