ヴェトナム戦争時代、海軍パイロットのディーター (クリスチャン・ベイル) は秘密作戦によって敵地爆撃の指示を受け、空母から飛び立つ。しかし地上からの迎撃によって撃墜され、捕虜になる。そこには既に何年も捕らわれの身となっていたジーン (ジェレミー・デイヴィーズ) やデュアン (スティーヴ・ザーン) らがいた。あばら屋のような収容所だが、周りはジャングルという自然の要塞とでも言うべき場所で、誰も万が一にも脱走できる可能性はないと思っていた。ディーター一人を除いて‥‥


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同じドイツ出身でジャーマン・ニュー・シネマを支えた一人であるヴィム・ヴェンダースが近年、アメリカでは「ブルーズ」や「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」等でむしろTVの方でよく名前を聞くように、一方の雄ヴェルナー・ヘルツォークも、アメリカでTVドキュメンタリーの「グリズリー・マン」を撮っている。「グリズリー・マン」はできがよかったので劇場でも公開されたが、結局もう一本の「10ミニッツ・オールダー」は、アメリカでは映画祭サーキットを除き、劇場公開はなかった。これもショウタイムが本当に毎回10分ずつ放送したTVシリーズとして見ている者の方が圧倒的に多いだろう。


調べてみたら、ヘルツォークは地元やヨーロッパでも、90年代中盤以降、TV作品が多い。だから近年、あまり目にする機会がなかったのかと知った。しかし最近はまたフィルムに戻ってきているようで、2000年以降はちゃんと劇場用作品も何作か撮っている。ただアメリカでは公開されなかっただけらしい。そのヘルツォークの新作が久しぶりに劇場公開され、しかもなかなか評がいい。


その「レスキュー・ドーン」だが、ヴェトナム戦争時代に極秘指令を受けて爆撃に飛び立つが、撃墜されて捕虜となり、その過酷な状況から生還したドイツ系アメリカ人の男を主人公としている。基本的に現実に起こったことであり、要するに「レスキュー・ドーン」はドキュドラマだ。しかもこれに先立つ1997年に、ヘルツォークは一度、その男ディーター・デングラーの所業をドキュメンタリー「リトル・ディーター・ニーズ・トゥ・フライ (Little Dieter Needs to Fly)」として製作している。それを今回また、今度は物語として再度製作したわけだ。よほどこの男に思い入れがあったものと見える。


それにしてもまたジャングルだ。ヘルツォーク作品はとにかくジャングルや原生林が舞台じゃないと始まらないが、それは今回も例外じゃない。「レスキュー・ドーン」では舞台はその自然の要塞であるジャングルに囲まれた収容所という二重に囲まれた世界なのだが、捕らわれの身となった主人公ディーターは、絶対にそこから脱走しようという希望を捨てない。要するにジャングルが舞台の「プリズン・ブレイク」なのであり、「大脱走」、「パピヨン」、「アルカトラズからの脱出」等、連綿と続く脱走ものの最新の作品が「レスキュー・ドーン」だ。


一方、ヴェトナムを舞台とした捕虜の話ということで、「ディア・ハンター」を思い出す者も多いかもしれない。実際、脱走するまでの作品の肌触りとして最も近いものはこれだろう。ほとんど捕虜というよりは奴隷といった方が近い扱いを受け、捕らわれの身となった者たちは段々痩せ細り、精神の均衡を崩していく。そんな中でもほとんど楽天的で前向きとすら言える姿勢で虎視眈々と脱走の機会を窺うディーター。はっきり言ってあんた、子供時代はハイパーで周りからつま弾きされてただろうという気がする。


ディーターは収容所に収容されるまででも結構拷問に近い扱い、というか拷問を受け、転向を要求されるのだが、頑なにそれを拒否する。結果として収容所に入れられるわけだが、そこには既にそこで何年も暮らしている捕虜たちがいた。白人兵士たちだけでなくアジア人の捕虜もいるのだが、元々痩せ型のアジア人はともかく、元はガタイのよい白人の捕虜が痩せ衰えているのを見る方がやはりインパクトがある。というか、そもそもの姿を知らない捕虜を演じるアジア人俳優より、ガリガリに体重を落としたスティーヴ・ザーンやジェレミー・デイヴィースには、本気で驚かされる。特にデイヴィースなんて完全にあばらが浮いて皮膚が張りついている。元々それほど体格がいいわけでもないのに、役のために20kg以上落としたのは確実だ。


しかし体重を落としたというと、やはり主演のクリスチャン・ベイルに言及しないわけには行くまい。当然最初は健康体として出てくるわけだが、それが捕虜生活を続ける間にどんどん痩せ細ってくる。ベイルは「マシニスト」でも今回のデイヴィースもかくやという痩せ細った身体を見せていたが、今回もそれに匹敵する減量を見せる。最初は健康体の血色のいい兵士として出てきて、段々肉が削げ落ちていくのだ。彼だって20kgは体重を落としている。


体重の増減も厭わないなり切り俳優というと、真っ先に思い浮かぶのはロバート・デニーロだが、デニーロの場合、元の体重から増やしてまた戻しはしても、平時の体重からさらに減量していたわけではない。どちらが楽かはやる人の体質にも因るだろうから一概には言えないが、両方とも少なくともなまじっかの意志力では実現できまいというのは言える。彼らを見ていると、世の中にこんなにありとあらゆる種類の減量法が跋扈しているのが虚しく見える。こいつらは目標を決めて、それに合わせて体重を落としたりすることが楽しくてしょうがないんじゃないかという気すらする。


ベイルなんて、その上さらに、ウジ虫を喜んで食ったりしている。本当に食ったそうだ。ここまで来ると、禁欲的とか真面目とかいうよりも、ほとんどお前、マゾだろうと言いたくなる。探検家とか冒険家は、話を聞いたり見たりしていると、自分の身体を痛めつけて喜んでいるようにしか見えないが、ベイルやデイヴィース等の一部の俳優がその系統であるのも間違いあるまい。ヘルツォークは盟友のクラウス・キンスキーと愛憎半ばする間柄で、撮影現場では幾度となく険悪な雰囲気が流れ、「フィッツカラルド」では帰ろうとするキンスキーにヘルツォークが拳銃を突きつけて脅したという逸話が残っているが、ベイルとはほとんどそんなことはなく、少なくとも二人の関係という点では非常に良好に撮影は進んだそうだ。ヘルツォークが無理な注文してもベイルなら喜んでそれに答えたと思えるから、それは納得できる。


いずれにしても、これまでのヘルツォーク作品における登場人物を巡る過酷な環境や生死を賭けた山奥の行軍を知っていたら、「レスキュー・ドーン」において登場人物に待ち受ける過酷な状況や運命は、実はさほど意外でもなんでもない。むろん見ている時ははらはらどきどきもんだが、しかし心の片隅では、ヘルツォークだし、ヴェトナム戦争だし、当然これくらいはあるだろうと思っていた。それにベイルがディーターをどんな時でも楽天的で前向きな人間として演じているので、どんな状態でもどこかに一縷の希望なようなものが感ぜられる。一方でほとんど陰にこもっているジーンやデュアンもいるからバランスはとれているわけだが。


それよりも作品の手触りとして最も意外に感じたのが、全体としての印象がかなりアメリカ万歳的なものになっていることだったりする。単に事実をなぞったからそういうものになったのか、それとも意図的だったのか、むしろこれまでの経歴からしてヴェトナムの肩を持つか、少なくとも反文明的な肌触りになるとばかり思われた「レスキュー・ドーン」が、敵に捕まりながらもオレは生還すると宣言して実際に生還し、高らかに勝利を宣言する人間を主人公に持つことで、ほとんど戦後の反共映画というか戦意高揚映画に近い雰囲気を持つ作品になってしまっている。これまで、自然に対して負け続け、そして負けを認めることでかろうじて自然と対等でいられることを描き続けた人間が、ここへきて敵に勝った自然に勝った、少なくとも負けなかったと誇示する男を主人公にして作品を撮っているのだ。


そのため、「レスキュー・ドーン」はヘルツォークのこれまでの作品と外見上は似ていながら、実際に受ける印象はかなり似て非なるものになっている。なんで今さらこういう作品を撮ってしまったのかよくわからないが、一度はドキュメンタリーとして、さらにもう一度物語として撮っているところを見ると、本人がよほど撮りたかった題材に違いない。もしかしたらヘルツォークは、ここら辺で自然に負けなかった人間を撮ることでバランスを撮りたかったのかもしれない。


実際の話、前回の「グリズリー・マン」はいつも通り自然に屈した人間の話だったわけだから、いきなりヘルツォークが変節したという感じでもないのだ。もしかしたらヘルツォークにおいて重要なことは、自然に対して挑戦するというそのことだけにあり、実は勝とうと負けようと、そんなことは重要なことではないのかもしれない。たまたま今回の主人公が勝っただけなのかもしれないのだ。あるいは、描きたいのは、困難に立ち向かおうとする意志の力そのものということか。それがほとんど常に相手がジャングルになってしまうのは、単に嗜好の問題なんだろう。ヘルツォークが18世紀とか19世紀とかに生まれていれば、後世に名を残す探検家になっていたような気がする。


「グリズリー・マン」では、主人公がグリズリーに襲われて死んだことが作品の冒頭で明らかにされる。あとはなぜ、どうやって彼が死んだかの軌跡を追跡する話だ。そして今回も、既にヘルツォーク自身が撮っていたドキュメンタリーという存在もあるため、基本的に撃墜された海軍パイロットが艱難辛苦を経験した上、生還する話だということは既に作品を見る前からほとんど誰でも知っている。この作品に言及したコメントや評もすべてそう書いている。


そのため作品は、では、どうやって彼が生き地獄を経験した上に生還したかということを、結果を知った上で最初から物語る、いわば作品は上映の前から始まっている倒叙法とでも言える構成にならざるを得ない。つまり、ヘルツォークに撮って重要なことは経過であって、結果ではないことの証明とも感ぜられる。ヘルツォークにとっては、いつも通りのいつも考えていることを今回もまた撮っただけで、「レスキュー・ドーン」がいつもとかなり感触が異なる理由を訊いても、本人にはなんのことやらさっぱりわけがわからないかもしれない。


ところで、たぶん「レスキュー・ドーン」と公開時期が一緒になることを意識したと思えるドキュメンタリー、「ウォーキング・トゥ・ウェルナー (Walking to Werner)」という作品も今、限定公開されている。この作品、ヘルツォークがかつて恩師のロッテ・アイスナーを見舞いにミュンヘンからパリまで歩いた (「ハンニバル・ライジング」みたいだ!) ことに触発された映像作家のライナス・フィリップスが、同様にシアトルからLAまで歩いた行程をカメラに収めたものだ。


結局すごくヘンな作品になったらしく、ニューヨーク・タイムズから「苛立たしい」と言われてしまっていた。ヘルツォークは近年アメリカにいることが多いので、フィリップスはヘルツォークがたまたまLAにいる時を狙ってこの暴挙を決行したらしいのだが、ヘルツォークは、フィリップスがLAに着く頃には自分は既にLAにいないことを承知で、フィリップスにこれができたらなんだってできると尻押ししたらしい。なんか違うような気もするが、いかにもこの人らしい挿話だとも思うのであった。







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Rescue Dawn   戦場からの脱出 (レスキュー・ドーン)  (2007年7月)

 
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