ルーベン (エリオット・グールド) はラスヴェガスに共同でホテル建設を約束していたバンク (アル・パチーノ) から手ひどく裏切られ、心臓発作を起こし、失意もあって寝たきりになる。彼の枕元に集まったオーシャン (ジョージ・クルーニー)、ラスティ (ブラッド・ピット) を中心にする仲間たちは、策を練ってバンクに一泡吹かせ、失った金を取り戻そうと画策する‥‥


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いつの間にやら既にシリーズ第3弾となってしまった「オーシャン」、最初の「11」を見た時は、これはシリーズ化して「12」、「13」もやってもらいたいと思ったが、私の考えでは主人公のジョージ・クルーニー演じるオーシャンとパートナーのジュリア・ロバーツ演じるテスとの間に子供ができ、その成長した子供たちが仲間になって「12」、「13」とナンバーも増えていくというものだった。


ところが既に「12」では誰が12番目の仲間なのか製作者ですらよくわかっておらず、「13」ともなればなおさらである。しかも今回はテスがちらとすらも、本当に一瞬たりとも顔を出さない。要するに男たちによる男の連帯を描く作品となってしまった。本当ならここでナンバーを一つ減らさざるを得ないはずだが、そういうこともない。それとも最初からテスは数に入ってなかったんだっけ。あるいはちょっとだけ顔を見せるエディ・イザードは仲間として数に数えてもいいものか。結局「12」の次は「13」だからそうなったと理屈でタイトルがついたとしか思えない。もういい、あとは単純に「14」、「15」と数を増やしていくという安易さで製作してもよしとしよう。


冒頭、自分の金庫破りの仕事にいざとりかかろうとするラスティにオーシャンから連絡が入る。既に地下に穴を掘り、機械を設置してこれからが本番、ラスティにしかできない腕の見せ所という場面で携帯が鳴る。と、ラスティはそのやりかけの仕事をほっぽってオーシャンに合流するためにその場を去る。たとえそれがどんな用件であろうとも、オーシャンからの連絡がすべての何においても優先するのだ。


ここで思い出すのはロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズで、あれは「初秋」だったかそれとも他の作品だったか、主人公スペンサーの相棒兼用心棒のホウクが、なにをおいてもスペンサーの呼び出しには応じるので、それにほとんど嫉妬したスペンサーの恋人スーザンがホウクに向かい、あんたはなんで自分が呼び出されたかも知らないの、とほとんど叱りつけると、ホウクはしれっと知らない、と答えるシーンだ。ラスティもたとえ自分が何をしていようとも、オーシャンの声がかかるとなにはともあれその場に駆けつける。それより重要なことなぞない。


そしてそのラスティが呼び出された理由が、裏切られたルーベンの無念を晴らすためだという。その上オーシャンの唯一の紅一点の仲間テスが話に絡んでこないとなれば、もうこれは今回は男の話である。前半10分を終えた段階で、その後話に登場する女性は、たぶんオーシャンらに引っかけられるためだけの存在であろうことは間違いなく、それがバンクの秘書アビゲイルを演じるエレン・バーキンだろうということがわかると、わくわくしてくる。それにしてもバーキンとキャメロン・ディアスって、ますます印象が似てきた。バーキンってディアスが歳とるとまったくああなりそうな感じがする。


そのバーキン演じるアビゲイルと、アル・パチーノ演じるバンクが今回のカモだ。しかし途中、どうしても資金が足りなくなり、計画を断念せざるを得なくなる瀬戸際までオーシャンたちは追いつめられる。そこで妙案を出すのがマット・デイモン演じるライナスだ。ここが「オーシャン」シリーズのまことに不思議と言うか面白いところなのだが、今ではデイモンは誰が見てもアメリカを代表する俳優の一人だろう。かつてのいかにもアメリカ人青二才に見えた点が現在では落ち着き、かなりどんな役でもこなせるようになった。ここ数年、出ている作品が「ボーン」シリーズ、「ディパーテッド」「ザ・グッド・シェパード」、マーティン・スコセッシ作品の次にロバート・デニーロ作品に主演となれば、これははっきり言って経歴の上ではブラッド・ピットよりこちらの方が大物に見えないこともない。


そのデイモンが、「オーシャン」に戻ってくると、やはりいつでもオーシャンとラスティに頭が上がらない青二才のままなのだ。しかし現実世界ではどんどん格が上がっているデイモンという事実が、そういう青二才役からはみ出てしまう。デイモン以外はクルーニーにせよピットにせよその他の誰にせよ多かれ少なかれ本人が持っているイメージからそうそう離れているわけではないが、今回ばかりはデイモンだけはかなり違うと感じる。映画の中で彼だけが常につけ鼻をして変装し、顔を違えているのはこの辺に理由があると思える。どこかでバランスをとる必要があったのだ。遊びでラスティがむさい男を演じるのとライナスの変装とは次元が違う。


こういう、映画の外の話を平気で持ち込ませても、というか、そういう現実の世界の話を堂々とキャスティングに影響させ、二重三重ににやりとさせるのがこのシリーズの特徴だ。演出のスティーヴン・ソダーバーグは明らかに観客がそういう視点からでも楽しむことを意識しており、だからこそ主要人物が13人以上いるという大所帯なのに、それでもそのほぼ全員にどこかでちゃんと見せ場を用意している。ほとんどガラ映画なのだ。「12」のヴァンサン・カッセルまで再登場した時は、お前に割いている時間はない、いったいどうするつもりなんだとほとんど心の中で叫んでしまい、他方、もしかしてキャサリン・ゼタ-ジョーンズもどこかでカメオ出演しているとかと、一瞬期待もしてしまう。その上ちゃんとストーリーも伏線もきちりと押さえるべきところは押さえているとなれば、もうこちらも乗せられて楽しむしかないだろう。よく作るよな、こんな映画。


「13」はガラ映画だから自分の好きな俳優の好きなシーンを楽しんでいればいいわけだが、私の意見では今回最もわりを食ったというか、この俳優にしてはイマ一つという印象を受けたのが、実はたぶん登場時間は最も長いであろうアル・パチーノである。オーシャンの敵役としてはパチーノよりも、シリーズ悪役として肩の力を抜いた軽い悪役に徹しているアンディ・ガルシアや、今回のバーキンの間の抜けた騙され方の方が印象に残った。その方が作品に合っているからだろう。要するにパチーノの場合、彼がこれまでに造型してきた数々の印象的な役柄と知らず知らずのうちに比較してしまうし、本人もいつも通り真面目に悪役を作ろうとしすぎたんではないかという気がする。それがいいとか悪いとかではなく、単に今回は噛み合わなかったという印象を受けた。


私の希望としては、是非今後の作品にジュリア・ロバーツの現実の双子の子供を絡ませてもらいたいということだが、ネックはそれが可能になるまでには少なくともあと10年はかかることだろうか。子供たちを天才子供詐欺師という設定にしてもそのくらいかかるだろうし、生まれたばかりの3人目も絡めるならば、さらにもっとかかるかもしれない。しかしこの調子で行けば「14」ができるのが2010年、「15」が2013年だから、作品が「17」、「18」くらいになればできないことではないだろうし、ソダーバーグやクルーニーがそのことを考えていないわけがないと思う。


「20」くらいになればクルーニーとピットは引退、ロバーツの子供たちが無事あとを引き継ぐはずなのだが、問題は、さてロバーツが子供を俳優にしたいかどうかである。私としては50:50でその可能性はあると思っている。その時までにピットとアンジェリーナ・ジョリーの子供たちも10人くらいにはなっているだろうから、彼らを相手役にするとまた面白いかもしれない。などとキャスティングをあれこれ無責任に夢想するのも、このシリーズの楽しみの一つなのであった。







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Ocean's 13   オーシャンズ13  (2007年6月)

 
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