Nacho Libre   ナチョ・リブレ   (2006年6月)

メキシコの貧しい修道院で暮らす修道士のナチョ (ジャック・ブラック) はプロレス好きで、ホームレスのエスケレト (エクトール・ヒメネス) を仲間に率いれ、ローカルのレスリング・マッチに出て賞金を稼いで少しは修道院の役に立つとともに、尊敬も集めることを画策する。修道士がプロレスで賞金を得ることは罪であるため、コスチュームを縫ってマスクを被ったナチョとエスケレトは、勝つことはできなかったものの、いくばくかのリング・マネーを手に入れる。一方、修道院に新しいシスターのエンカーナシオン (アナ・デ・ラ・レグエラ) が赴任してきて、ナチョはそちらにも心を奪われるのだった‥‥


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近年、劇場でコメディを見ることはそれほどないのだが、それでもジム・キャリーやアダム・サンドラー等、出てると一応は気になるというコメディアンはいないこともない。ジャック・ブラックもその一人だ。ブラックが出ているからといって「キング・コング」を見る気にはならないが、そのブラックが、「バス男 (Napoleon Dynamite)」(なんなんだこの邦題は。電車の次はバスという安易さが情けない) のジャレッド・ヘスと組んで新作を撮るというとなると、これはやはり気になる。


それでも、特にアメリカ的スラップスティックな笑いに毒されているとは私自身はまったく思ってはいないのだが、この映画の予告編で、牛に追っかけられたブラックが空中に高く突き上げられて地上に叩きつけられるというシーンで思わず吹き出したら、うちの女房に何がおかしいのかと訊かれてしまった。あれがおかしくないのか。やはりいつの間にか私もアメリカ的なものに毒されてしまっていたか。


「バス男」なんて可哀想な邦題をつけられてしまったが、「ナポレオン・ダイナマイト」は、一昨年、こちらではかなりヒットした。「バス男」なんてタイトルをつけられるところを見てもわかるように、ダメ男リヴェンジものなのだが、そこはアメリカ映画だからしめっぽくはない。こういうオタク/落ちこぼれ奮闘系のアメリカ映画は、「ナーズの復讐」シリーズを例に出すまでもなく、実はアメリカ映画の隠れ定番ものとして定着しており、最近封切られた映画でも、「テイク・ザ・リード」は明らかにこの系統だし、「男を変える恋愛講座 (Failure to Launch)」だってそうだと言える。


「ナチョ・リブレ」は、ブラック以外に知られた俳優が一人も出ていないにしては、公開前の注目度は高かった。それはとりもなおさず、ブラックだけでなく、「ナポレオン・ダイナマイト」演出のジャレッド・ヘスの第2作ということで注目されていたからに他ならない。例えばジム・キャリーやアダム・サンドラーがどれだけ人気があろうとも、彼らの出演作の演出家が注目されることはまずない。これは逆もまた真で、コメディ作家として知られるウッディ・アレンやウェス・アンダーソンが演出する作品では、ほとんど出演者は注目されない。わりと大物が出ているのにもかかわらずだ。それを考えると、現在のコメディ男優としてはアメリカでも五指に入るだろうブラックと、第2作が待望されたヘスの組み合わせは、鬼に金棒的な印象があった。


だいたい、うだつの上がらないメキシコのプロレスラー志望の修道士が主人公で、しかもカソリックの教えではプロレスは罪であるため (というか、その手の娯楽が罪なんだろう)、その修道士ナチョは覆面レスラーとしてリングに上り、弱いくせに、というか弱いからこそリングの上で予想外の行動に出てそれが受け、人気レスラーになってしまうという設定は、聞いただけでかなり面白そうだ。レスラーになるのがブラックであるだけになおさらだ。これがアダム・サンドラーだと、「ロンゲスト・ヤード」になってしまう。


実際、覆面をしたブラックって、なにやら似合う。小振りふっくらで手足が短いブラックは、どっちかっつうと小人レスラーに見えなくもなく、それがいかにも実際にありそうな雰囲気を醸し出している。そのブラックが村興行の巡業レスリングに素人参加し、一部とはいえそれなりに人気となってしまう。実は、この辺の展開はかなり疑問だ。いくらメキシコの片田舎のレスリングだろうと、見せ物としてのレスリングなら、できレースでないレスリングはないと思う。本気で殴り合ったり技をかけ合うのは、素人にやらせるのはかなり危険だろう。ヘッド・ギアをつけさせてボクシングとかムエタイとかをやらせるならまだわからないではないが、ショウ・アップされたプロレスで、それを客が見て面白い勝負と思うには、どうしてもあらかじめなんらかの打ち合わせが必要なはずであり、それをしない興行主がいないとは到底思えない。


しかも、実際に特に動きが機敏とは言えないブラックが実際にリングに上ると、かなり無理目の演出となってしまい、これはいかにも惜しい。ブラックは昨年、「キング・コング」の公開直前に確か深夜トークの「レイト・ショウ」にゲストとして出てきた時、「ナチョ・リブレ」撮影時に怪我したとかいうようなことを言っていた。要するに彼としては目一杯やっているんだろうが、あの動きでは正直言って勝てないどころか勝負にすらなるまい。もちろん設定としては彼らは弱いけれども人気が出てしまうということになっているのだが、あれでは八百長というのすら憚られる。


今回、「ナチョ・リブレ」がわりと貶されているのは、ブラック、ヘスという旬の才能を起用していながら、でき上がった作品が観客の期待に添うものではなかったというのが最大の理由だろう。とはいえ、もしブラックもヘスも知らない人間がこの作品を見たら、かなり楽しめると思う。実際、それなりに笑えるシーンはある。ただし、メキシコを舞台にしており、ブラックその他の出演者の面々はいかにもハリウッド的ご都合主義として、スペイン語訛りの英語を喋る。これが実際のスパニッシュにはかなり不評だ。ブラックは当然わざとスパニッシュ的アクセントを誇張して喋るのだが、確かにこういう風に自国語を喋られては、地元の人間はあまり嬉しくはなかろうと思う。喋っている内容よりも、喋り方そのものの方にどうしても耳が行ってしまうんじゃないか。


そんなこんなで、私としてはそれなりに面白いと感じた「ナチョ・リブレ」は、事前の注目度の高さにもかかわらず、公開後は急速にしぼんでいったという印象を受ける。特に「ナポレオン・ダイナマイト」のファンであった者ほど、「ナチョ・リブレ」に対しては点が辛いようだ。ブラックに覆面を被せてレスラーにしたアイディアは悪くなかったんだが、レスラーに扮したブラックが思ったほど動けなかったというのが、今一つプロレス映画としての「ナチョ・リブレ」の切れが悪くなった敗因と言えよう。


これはブラックがロッカーを夢見る教師役として登場した 「スクール・オブ・ロック」で、 ブラックが実際にプロのロッカーでもあることがどれだけ作品に貢献したかを考えれば一目瞭然だ。もちろん動けなくても編集の力を借りればアクション・スターにもなれるわけだが、動けなければ笑いをとるのは難しい。意外にもブラックの笑いは身体の動きで笑いをとるスラップスティックなように見えて、実はかなり頭を回転させて理解することを必要とする。ただ、あのハイパーなキャラクターがそうではないように見させているだけだ。


最後に、私は作中でブラックが恋い焦がれる修道女のエンカーナシオンを、見ている最中だけでなく、見終わってからもペネロペ・クルスだと思い込んでいた。冒頭のクレジットもちゃんと見ているのにである。もう、とにかく、頭の中ではペドロ・アルモドヴァルの「オール・アバウト・マイ・マザー」に出てきたクルスと、「ナチョ・リブレ」のアナ・デ・ラ・レグエラが完全に混同されてしまっており、家に帰って女房と話してて、なんか、どっかでどっちかが何かを勘違いしていると気づかなければ、ずっとそのままだったかもしれない。思い込みは怖い。






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