Match Point   マッチ・ポイント   (2006年1月)

テニス・コーチのクリス・ウィルトン (ジョナサン・リス-マイヤーズ) は、漠然とした意志を胸に秘めた野心家だった。特権階級の集うテニス・クラブで大金持ちのトム (マシュウ・グッド) と知り合ったクリスは、トムの妹クロイ (エミリー・モーティマー) と親密になる。一方、クリスはトムのガール・フレンドの女優志望のノラ (スカーレット・ヨハンソン) にも強烈に惹かれるものを感じていた‥‥


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久方ぶりに往年のウッディ・アレンが帰ってきたと好評の「マッチ・ポイント」、しかし、この作品にはアレン当人は出ていない。それどころか、これはアレン得意のコメディではない。「メリンダとメリンダ」のような才気を前面に押し出したコメディ・ドラマですらない。本当に久しぶりに、アレンが前面に出ず、最初から最後までシリアスに押すのが「マッチ・ポイント」だ。


わからないではないが、ウッディ・アレンに対して人はかなり先入観を持っている。しかもネガティヴな先入観を持っている者が多い。うちの女房もそのタイプで、「マッチ・ポイント」見に行く? と訊いたら、誰、それ? ウッディ・アレン? 行かない、と言ってそそくさとベッドに入って昼寝の体勢になってしまった。こういう反応を示す者は、実はかなり多いと思う。


とはいえ、「マッチ・ポイント」は上に書いた通り、アレン本人が出るわけではなく、コメディでもない。冒頭の数分でドストエフスキーを読んでいる主人公のクリスが示すように、これは「罪と罰」であり、もっと直截的に言えば「アメリカの悲劇」あるいは「陽のあたる場所」だ (場所はロンドンだが。) つまり、上昇指向の強い人間が生み出す悲劇を描く。


アレンの作品の特徴の一つに、話によけいな枝葉を挟まず、すぐ本題に入り、話が終わるとすぐおしまいになるような経済性が挙げられるが、それは今回も例外ではない。冒頭、主人公が登場して現在の状況を示し、テニス・クラブのコーチになり、金持ちのヒューイット家の面々という主要登場人物を出し、舞台装置が整って、さあ、これからが本題というところまで、ものの5分くらいしかかかっていない。これ以上端折ったら誰が誰だかわからないだろうという最低限の時間で最大の効果を上げようとしている。思わず、作品が始まってオープニングのタイトル・ロールが出るまで30分くらいかかった「リービング・ラスベガス」を思い出す。もちろんアレン作品ではオープニング・ロールは作品が始まる前に最小限流れるに過ぎない。


そしてこの最小の努力で最大限の効果を得ようとする姿勢が、ここでもある種の反感を得る。なかなか好評の「マッチ・ポイント」だが、現代版「罪と罰」的な悲劇を描く作品にしては、演出が対象と距離を持ち、どちらかというと淡々という感じで話は進んでいく。そこに違和感を持つ者も結構いる。つまり、悲劇というものは時代錯誤的に大がかりな悲劇だから悲劇なのであって、これじゃ中途半端というわけだ。


しかし、それでも、骨格としては悲劇以外の何ものでもない「マッチ・ポイント」は、ちゃんと最後のカタストロフィに向けて着々と進む。実際、主人公の行動の結果がどんどん悪い方向に進み出し、悲劇的結末が避けられないのが誰の目にも明らかになっていくと、スクリーンを正視するのが耐えられなくなっていく。


うーん、この破局に向かって加速していくドライヴ感、どこかで経験しているなあと考えて、ふと思い出した。「ドッグヴィル」をはじめとするラース・フォン・トリアーの諸作品だ。悲劇を提出しようとして余分な背景を削り、登場人物に密着することで内面の深みを出すことに注力するトリアー作品と、常に対象から距離を置いたところで人間を描く「マッチ・ポイント」の印象がこうも似てくるとは、私にとっても驚きだった。悲劇という構造が似ているというだけではこうも受ける印象が似通ってくるわけはないと思うのだが、そもそも、やはりどういうスタイルで提出しようとも、悲劇は悲劇的結末に向かって加速していくからこそ悲劇なのであって、それは誰がどういう方法で演出しようとも変わらないのかもしれない。


とはいえそこは才人のアレン、主人公が破局に向かってまっしぐらに突っ走りながら、悲劇を悲劇のままでは終わらせない。クリスが後戻りのきかない破滅的行動に走った後、話はそこから実にアレン的な一ひねりが加えられる。こういう悲劇の真っ最中にどうしても笑いを差し挟まずにいられないアレンの演出は、実は最後の最後で悲劇とは呼べなくなる。こういうオチとも諧謔ともとれる一ひねりをつけ加えずにいられないのがアレンのアレンたるところであって、思わずこう来たかと唖然とする。


要するにこの作品は悲劇ではないとして弾劾する者がいるのは、大いにこの幕切れがものを言っているのだろうが、しかし、確かにこの作品はアレンがしか書けまい。オープニングのスロウ・モーションと呼応するクライマックスでのスロウ・モーション、そしてその直後の観客の予想を裏切る一ひねりの呼吸は、才人アレンの面目躍如たるものがあり、この結末が気に入るか気に入らないかはともかく、ついお見事と言いたくなる。


主人公のクリスを演じるジョナサン・リス-マイヤーズは特に誉められているというわけではないのだが、出演者よりも作り手に目がいくアレン作品ではしょうがないところか。顔の下半分がホアキン・フェニックスを思い出させる。一方で演技開眼かとなかなか注目されているスカーレット・ヨハンソンは、役得という点もあるだろうが確かにいいできで、大根のように見えなくもないという点を逆に利用してうまく役にはまった。エミリー・モーティマーはどんくさそうな育ちのいい子という役柄を好演、ルパート・エヴェレットが若返ったようなマシュウ・グッドもいい味出している。ものわかりのいい好々爺の父アレックを演じたブライアン・コックスが、「L.I.E.」で変態小児愛好者を演じたのと同じ人物とは到底思えない。


どうしても対象に対して距離を置いてしまうアレンは、だからこそ登場人物を突き放したコメディと相性がいいと思われ、実際そういう姿勢が効果的に作品にも現れている。アレンがここまでシリアスで通した作品となると、いったいどれくらいぶりになるか。90年代に一時アレン作品を見なくなった時期があるので定かではないが、ある評を読んだら、「マッチ・ポイント」は「重罪と軽罪 (Crimes and Misdemeanors)」以来のアレンのシリアス・ドラマ、みたいな書かれ方をしていた。私も一瞬そう思ったのだが、それでも「重罪と軽罪」は「マッチ・ポイント」ほどシリアス一辺倒ではなかったような気もする。


しかしそう思って調べてみると、アレンの作品ってやはり多かれ少なかれコメディ色が強く、誰の目から見ても間違いなくシリアスでしかもアレン自身が出ていない作品というと、どうやら78年の「インテリア (Interiors)」まで遡らないとないようだ。つまり「マッチ・ポイント」はそれだけの期間を置いてアレンが捲土重来を期した自信作と言えなくもない。わざわざ住み慣れたマンハッタンを離れロンドンで心機一転製作した「マッチ・ポイント」、かなりその自信を裏切らないできに仕上がっていると思う。






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