Lust, Caution   ラスト、コーション (色/戒)  (2007年10月)

日本軍占領時代の香港。演劇に携わっていた理想に燃える学生たちは、中国の将来を本気で憂えた結果、傀儡政権の国辱ものの裏切者であるイー (トニー・レオン) を亡き者にしなければならないという結論に達する。最も演技力を評価されたウォン (タン・ウェイ) が素性を偽ってイーに近づいていい仲になり、隙を見て仲間たちがとどめを刺すという計画を立てる。しかし徹底して用心深いイーは、絶対に暗い場所や危険な場所には近づかず、ウォンたちは次第に焦りを募らせる‥‥


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もちろん既に世界的に有名な映画作家であったわけだが、「ブロークバック・マウンテン」の成功によってほとんど巨匠の仲間入りをした感のあるアン・リーの新作は、日本軍占領時代の上海を舞台としたポリティカル・スリラー兼恋愛ドラマなのだという。なかなか大作のようで、時間も2時間40分と3時間になんなんとしている。リーの新作を見ることには吝かではないが、気軽に3時間ものばかりを作ってもらいたくはないなという気もしないではない。


しかもこの「ラスト、コーション」ははっきりと中国映画であり、登場人物は中国語をしゃべる。そのため、たとえリー作品といえども、字幕映画がほぼ弾圧されているアメリカにおいては、ほとんど単館上映に近い扱いだ。私が住むクイーンズにまできて上映しているところがあるというだけでもラッキーと言える。とはいえ中国語圏では圧倒的知名度を誇るリーの新作である「ラスト、コーション」は、アメリカに住むチャイニーズには既に広く流布していたようで、劇場でチケットを買おうと列に並んでいると、前にも後ろにもチャイニーズがやたらといる。他にも上映中の作品はあるが、当然目当ては「ラスト、コーション」だろう。私の前に並んでいたチャイニーズのカップルの会話にも、端々にリー・アン、リー・アンという固有名詞が挟まる。そうか中国も当然名字の方を先に言うのか、なるほどと納得する。


そういやクイーンズには、フラッシングというマンハッタンのチャイナタウンに次ぐ大きなチャイニーズの町がある (近年はどちらかというと韓国人に圧されてコリアン・タウンという感じだが。) チャイニーズ人口はわりとあるはずなのだ。しかし「ラスト、コーション」がかかっているのはクイーンズではこの劇場だけで、フラッシング近辺ではやっていない。それで多くのチャイニーズがここまで出張ってきたんだろう。この劇場はクイーンズでもリタイアした白人の多く住むキュー・ガーデンというこぢんまりとした町にあり、いつ行っても観客は歳のいった白人層が多い。たぶんこんなに多くの中国人に囲まれて映画を見るのは初めてという者も多いに違いない。


実は私は結構中国人に間違えられる。まあアメリカ人にとって日本人も中国人も区別はつくまいと思うが、NYに来て色々チャイニーズに知人もできて、私自身、チャイニーズに間違えられるのも無理はないと思った。自分で言うのもなんだが、特に香港から来たチャイニーズと私の外観はかなり印象が似ているのだ。私は南の方の出身なのだが、祖先はこの辺から来たんだろうなという思いを強くした。いずれにしても、劇場の中に入ってもやたらと中国語が飛び交っており、一瞬自分が今どこにいるか忘れる。上映が始まると、チャイニーズってのはそうだったりするが、スクリーンに向かって相槌を打ったりそうだそうだともちろん中国語で反応したりする。それがまたなんともおかしい。今日に限っては少数派の白人観客層は結構ぎょっとしているだろうな。


「ラスト、コーション」は、アメリカではNC-17レイティングで公開されている。NC-17とは17歳以下入場禁止を意味する。リーは「ブロークバック・マウンテン」でかなり論議を醸した男同士のセックス・シーンを描いているし、「グリーン・デスティニー」「ハルク」でかなり印象的なアクションも撮っている。今回は時代が日本軍占領下の上海ということもあり、私はたぶん日本軍のあくどい地元の住人に対するリンチみたいな描写があるんだろうなと思っていた。アメリカでは性描写より残酷描写の方がそういう規制に引っかかりやすかったりする。しかもそのせいでNC-17レイティングか、これは日本軍、血も涙もない鬼畜として描かれているんだろう、うー、実のことを言うとあんまり見たくないかも、と思っていた。


そしたらまったくそんなことはなく、NC-17レイティングというのは、主人公の二人、トニー・レオン演じるミスター・イーとタン・ウェイ演じるウォンの性愛のシーンがひっかかっていたのであった。元々アメリカは解禁国であり、ポルノを意味するXXXレイティング、今回のNC-17レイティングという風に格付けはされるが、しかし、基本的に成人男女は見たい作品を見たい時に見れる。その上TVでも最近はかなりぎりぎりの描写が散見される。


現実にはアメリカの放送規範を決めるFCCは2004年のスーパー・ボウルにおけるジャネット・ジャクソンのおっぱいぽろり事件以来、以前よりお上の締めつけは厳しくなっているのだが、そうなると必ず反動というものがあり、逆にネットワーク以外ではそのことに反抗するようによけいにぎりぎりの描写に挑戦する姿勢というものも見られるようになった。最近でもIFCの「インディ・セックス」やショウタイムの「カリフォルニケイション」、そしてHBOの「テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」が、ほとんどまた枠を広げたという感がある。なんせ午後9時台の番組で男性が勃起した性器から射精する瞬間をしっかりと見せるのだ。たとえ金を払わないと見れないペイTVの番組といえども、普通の家庭の普通の子供たちが見ようと思えば自室で簡単に見れる。


そういうご時世でもあり、たとえNC-17といえども、わたしはそれが残虐描写ではなくセックス描写の方で引っかかっていたなんてまるで夢にも思わなかったのだ。そしたら確かに、リー演出のセックス描写は、かなり強烈なのだ。「ブロークバック・マウンテン」なんて目じゃない。この淫靡さは、セックスというより性愛という感じがしっくり来る。久しぶりに登場人物の裸のシーンでぞくぞくする気分を味わった。むろんNC-17といえどもポルノではなく、「テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」のように性器そのものや結合シーンとか射精の瞬間を直接見せるわけではないのだが、少なくともなんというか、本当に他人の性交を覗き見しているようなリアリティがある。いや、リアリティというだけならポルノそのものにはかなわないと思うのだが、それを上回る情動がある。これを演出として提出できるところがリーの真骨頂だ。


とはいえ、それにしても彼らって、本当にセックスしているわけではないのか。ウェイがイッた顔なんて、この顔が演技で出せるならばほとんど既にティルダ・スウィントン並みの演技力と言わざるを得ない。絶頂で身体が小刻みにぷるぷると痙攣して震えるなんてのもリーの演出なのか。果たしてそう演出する意図があったとして本当にそういうことが演技としてできるものなのか。いや、固唾をのんでスクリーンを見つめてしまった。たぶん劇場にいたすべての観客もそうだったろう。うーむ、なんか、脇毛マニアがいるというのもわかるわ。


要するに「ラスト、コーション」は性愛が現実の愛に転化していく様を描いた作品であり、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」やパトリス・シェローの「インティマシー」を彷彿とさせる。あるいはデイヴィッド・マッケンジーの「猟人日記」もあるし、セックス描写が特に印象に残らなかった点を除けば、「ヘディング・サウス」あたりとも共通点が多い。戦時中という時代が生んだただならぬ関係という点で、リリアナ・カヴァーニの「愛の嵐」やあるいはルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」を連想してもまんざら的外れじゃないかもしれない。考えると、公開時にはあれだけ話題になった「ナインハーフ」って、今ではいくつかのシーンを除いてほとんど覚えてないな、ただイメージだけでセックスをとらえているか (むろんそれもありだが)、あるいはそこに情動を挟み込むことができるかの差か。


とはいえそういう性愛描写が、万人に訴えかけるものではないことももちろんだ。私が劇場から帰ってきてからチェックした評の中には、リーのセックス描写の演出は「機械的」であるとして不可と評している媒体もあった。言われてみると、ああなるほど思い当たる点がないでもない。ちょっとした演出というかリズムのずれというか編集というか、その辺りだと思う。本物のポルノ・ヴィデオを見ていても、そこに演出の挟まる余地はそれほどないと思われるのにもかかわらず、実は結構演出が下手だとか機械的だとかいう印象を受けることはわりとあることだ。この評者はリーの演出を機械的だと思ったわけだが、では本物のポルノはその目にはどう映るのだろう。


こうしてとにかくその余韻を引く性愛描写の印象が強烈なせいでそればかりが話題になるし私もこの点にばかり言及してしまうのだが、しかし、実は当代きっての手だれの一人であるリーの演出は、全篇にわたって隙がない。特にリーは実はアクションを撮らせてもうまいことを思い出させてくれるのが、中盤の作品の要となる大学の演劇仲間による殺人シーンと最後のクライマックスで、こちらでもアクションを撮ることがうまいというよりは、アクションに情動を挟み込むことがうまい。


リーの撮るアクションは、マイケル・マンやリドリー・スコットが、派手で格好いいアクションを撮ることでそこにエモーションやキャラクターをつけ加えることができるのとはちょっと違うと思う。彼らは最初にアクションありきだが、リーの場合、キャラクターにまずアクションを起こす理由があり、そこで初めてアクションが生まれる。アクション=キャラクターであるマンやスコットとはその辺が違う。リーがハリウッド的アクションの「ハルク」で失敗したのはほとんど当然という気がする。


また、冒頭、および随所に登場する麻雀のシーンでは、麻雀をしながら描かれるのは当然麻雀そのものではなく、その後ろにおける駆け引きなのだが、まだ登場人物の配置がわからない冒頭の麻雀のシーンで既にその駆け引きや意識の流れ、エモーションを感じさせるのもリーならでは。実は麻雀牌をカメラが追うこのシーンでは、ホウ・シャオシェンが「百年恋歌」でやってみせた、ビリヤードでの球を追いながら実はまったく別のことを言っているというシーンを思い出させる。二人とも台湾出身ということが連想しやすい理由だったというのはあるだろうが、しかし、やはり二人は少なくとも人の感情のすくい方という点においてはかなり似ていると思う。二人とも巨匠と言ってしまっても誰も文句は言えまい。これでエドワード・ヤンがまだ生きていたら、台湾の三羽烏は本土中国の映画人に勝るとも劣らなかっただろうにと思ってしまうのであった。 







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