Lady in the Water   レディ・イン・ザ・ウォーター   (2006年7月)

モーテル形式のアパートの管理人クリーヴランド (ポール・ジアマッティ) は、毎日毎日、癖のある間借り人たちの要望や苦情の応対に忙しい。そんな最新の苦情は、夜中は使用禁止のはずのプールをどうやら誰かが使っているらしいというものだった。クリーヴランドはプールを監視していて何者かを目撃するが、追いかけようとしてプール脇で転倒して頭を打ち、昏倒してプールに落ちてしまう。そんな彼を助けた女の子が、実は夜中にプールに出没していたストーリー (ブライス・ダラス・ハワード) で、しかも彼女は、彼女の言うことを信じると、どうやらプールの底に住んでいるらしかった‥‥


_____________________________________________________________________


シャマランの映画だからととにかく公開初週に劇場に駆けつけ、予告編が終わって本編になり、いきなりワーナー・ブラザースのロゴが現れてびっくりする。そうか、もうディズニーとの契約は切れたのか。前回の「ザ・ヴィレッジ」は毀誉褒貶半々という感じだったから、新天地に移ってなにか新しく期するものがあったりするだろうか。


そのせいかどうかは知らないが、「レディ・イン・ザ・ウォーター」にはこれまでのシャマラン作品とは毛色が異なる点がいくつかある。シャマラン作品は、最後にこれまでの謎が解明される、いわゆる本格ミステリ系のテイストが横溢しており、その手の作品の読書が主体の私としては、当然シャマラン作品は肌に合った。特に語りの巧さが特徴のシャマランにこういう作品を撮らさせると、完全に巧く騙される。「サイン」だけは唯一本格系とは呼べないだろうが、それだって語りの巧さは充分堪能できた。


「レディ」は、これまでの作品の中では、その「サイン」に最も似ていると言える。要するに「レディ」は完全にオチがつく本格系ミステリというよりも、ファンタジーである。謎は最後に解明されるわけではなく、むしろ、で、どうなったのという謎オチに近い。元々シャマランは、核となる最も大きな謎さえ解明すれば、その他のその大きな謎を構成する小さな謎の理由づけはそのままほったらかしにしたまま作品を終えても平気という作風だった。「シックス・センス」で死者が見える少年がいても、「アンブレイカブル」に超人がいても、それはそういうものとして終わってしまう。死者が見える少年や超人がいることで、その他の大きな謎が解明されればそれでいいのだ。実際、それで観客は納得してしまう。死者が見えることの不思議なんて誰も話題にすらしないし、超人がいることの不思議は結局二次的なものでしかない。


謎を最後に解明することが作品のカタルシスになっているのに、その謎の解明に至る筋道の合理性を成り立たせる要素はまるで現実の物理法則を無視しているという構造は、実はこれまた最近の本格ミステリにそっくりだ。つまり、死者が生き返ったりパラレル・ワールドの話だったりエッシャー世界で話が進むというあれである。特に近年、本格ミステリはこういう傾向が進んでいるように見える。つまり、その手の作品ではシャマラン作品同様、作品の骨格となる大きな謎を解明するために、その他の些少な謎の解明はおざなりにされるか、わざと捨てておかれる。一つの謎を見捨てることでより大きな謎を解明するカタルシスが得られるならば、その方を書く方も読む方も好む。


実は正直に言うと、私はそういう一種の方便を利用するよりも、徹頭徹尾細部まで納得できる本格で行ってもらいたいと思う方だ。その私が、シャマラン作品で最も評価するのが、まったく言語道断に見えはしても、最後にすべての謎が物理的物語的に解明される「ヴィレッジ」というのも当然と言えよう。あんな話に信じる信じないはともかく一応すべてのオチはつけてしまう。誰がなんと言おうと近年で最も騙される快感を強烈に味わわせてくれたのが「ヴィレッジ」ということは疑いようがない。


その点「レディ」は、そういう小さな謎のいくつかも、最も大きな謎も、ほとんどが解明されないまま終わる。話自体が面白くないわけではないのだが、この置き去りにされたような感覚はなんだ。これに較べれば理由もなくエイリアンが地球にやってくる「サイン」の方がもっと親切だった。だいたい、クリーヴランドはなぜああも簡単に水の中からやってきたというストーリーのことを信じられる。そうじゃないと話が進まないからというのは当然あるだろうし、実際にそのプールの下に別世界が広がったのを見てしまったということもあるかもしれない。


しかし、クリーヴランド以外のテナントまでが、なぜああも簡単に奇想天外なストーリーの話を進んで信じようという気になるのか。それまでは誰もストーリーの姿を見たこともないのだ。そしてなぜストーリーの話がコリアの昔話とシンクロしてしまうのか。なぜ彼がセイヴィア (救世主) だったのか。で、実際彼は何をしたのか。坊やはどうやってシリアルの箱から世界を感得できるのか。クロスワード・パズルから世界の秩序を感じられるものなのか。腸の活動が悪くてバス・ルームにこもることに意味はあるのか。アミーゴ姉妹の役割は? ミスター・ファーバーの捨てキャラは捨てキャラ以上のものではないのか。実際には部外者である謎の怪物に接するのは、クリーヴランドとストーリーを除けば、セイヴィアとミスター・ファーバーの二人しかいない。こちらの世界とあちらの世界に通じる者たちが、今ここにいることの意味は?


これらの細部の疑問はすべて説明されないまま、最後に物語は大団円を迎えるというより分裂して終わる。いくら元々シャマランの話はそういう細部をほったらかしのまま終わることが多かったといっても、今回はそれを強烈に意識させたまま終わってしまう。それよりも大きな、ストーリーの来し方行く末という謎が宙ぶらりんのままだからだ。それともあれはあれでよかったのか。いや、やはりなにも問題は解決されていない。


こういう隔靴掻痒感が最も強く感じられたのが、シャワーの下でおびえるストーリーに、クリーヴランドがアナを通じてほとんど手振り身振りで意思の疎通を図るというシーンで、なんでそこでわざわざアナが間に入らないといけないのか疑問に思った者は多いと思う。元々ストーリーはクリーヴランドを慕っていたのであって、彼にだけ胸襟を開くという印象があったものが、なぜそこでクリーヴランドはドアの外からアナに橋渡し役を頼まななければいけないのか。要するに、「レディ」の全般を覆っているのが、こういう、よく言いたいことが伝わらない、あるいはずれているという感じだ。ここではただ、サイン・ラングエッジの身振り手振りをするストーリーの身体の動きを見せたかっただけなのではとすら思ってしまう。


それに、そのアナの兄をヴィックをシャマラン本人が演じていることも、話を進める上で特に効果があるとも思えない。実際シャマランはハンサムであるし、あのエキゾチックな顔立ちは、実は俳優としてもかなり使い勝手があると思うのだが、彼が自分自身の映画に出ているとなるとまた話は別だ。彼が出てくると、どうしても、で、自分で自分自身を演出しているわけね、と思ってしまう。御大クリント・イーストウッドが自分で自分を演出しているのとはわけが違うのだ。シャマランが出てくると、そこで話の流れが断ち切られる。ストーリー・テラーとしてのシャマランの最大の特質を自分自身でぶち壊してしまう。


シャマランは今回、めずらしくも編集の途中で何度か試写を行って観客の反応を窺ってマイナー・チェンジを施したそうだ。どこがどう変わったかまでは知らないが、そのことも逆に全体の統一感を薄める方向で作用してしまったのではという感触を受ける。それとも謎が謎を呼んで終わることが今回の狙いだったのか。コリアのおばさんの語る昔話が結局どういう意味や含蓄や教訓があったのかはわからないが、昔話というものは確かにそうだったりするし、その時に話にオチや意味ばかりを求めてもしょうがあるまい。要は話を見たり読んだり聞いたりしている時のドライヴ感がすべてなのであり、その時が面白ければいい。結局「レディ」はそういう結末のないおとぎ話に最も印象が近い。話があっちへ行ってこっちへ行って、何がなんだかよくわからないまま終わる。もしかしたらやはりこれはこれでよかったのか。






< previous                                      HOME

 
inserted by FC2 system